プロフィール
ミチェル・アスクエタ・ゴロスティサ(Michel Azcueta Gorostiza)は、1947年2月20日、スペイン・マドリードにバスク系の家庭の子として生まれ、後にペルーへ帰化した教育者・政治家です。17歳で宣教師養成機関に神学生として入学しましたが、わずか3年で退学。その後、ペルー・カトリック大学で教員資格を取得し、カナダのモントリオール大学では教育学・コミュニケーション学の大学院課程を修了しています。
ビジャ・エル・サルバドルの創設者
アスクエタの名を最も有名にしたのは、リマで最も活力ある地区の一つビジャ・エル・サルバドル(Villa El Salvador)の創設リーダーとしての活動です。1971年4月27日、80家族がパンプロナ(現在はサン・フアン・デ・ミラフローレス地区の一部)の土地に入植した際、彼はその先頭に立って家族たちと共に行動しました。入植者たちは最終的にルリン地区のタブラーダ低地へ移され、この新しい土地はルイス・バンバレン師(モンシニョール)によって「ビジャ・エル・サルバドル」と命名されました。
政治家としての経歴
「フェ・イ・アレグリア」学校の教員でもあったアスクエタは、1980年の左翼連合党(Izquierda Unida)結成に参加します。そして1984年、自らが創設に関わり住民運動を率いてきたビジャ・エル・サルバドルの区長に当選。翌期も再選を果たし、1989年まで務めました。
1990年から1992年にかけてはリマ市の評議員(アルデマン)を務め、その後はリマ南部工業団地自治工業団地自治庁の長官を歴任。さらに、イベロアメリカ首都都市連合アンデス地域の事務局長や、世界連合都市連盟の副会長といった国際的な要職も担っています。
アストゥリアス皇太子賞と国連平和メダル
1987年、区長としてスペイン・マドリードを訪れたアスクエタは、地区を代表してアストゥリアス皇太子賞を受賞しました。これは、自助・自主管理による住民の確固たる組織化が評価されたもので、1971年にたどり着いた不毛の砂地を繁栄するモデルシティへと変えた住民たちの努力が、国際的に認められた瞬間でした。
さらに同年、国連平和メダルも受章しています。
テロ攻撃、そして不屈の信念
1993年6月16日、創設時から教壇に立ち続けてきたビジャ・エル・サルバドルの「フェ・イ・アレグリア」学校に向かったアスクエタは、テロ攻撃に巻き込まれ、脚に重傷を負います。しかし療養中も、反逆(テロ)罪に対する死刑適用には断固反対する姿勢を崩しませんでした。同年末には、スペイン人権協会から国際賞を授与されています。
市長選と三度の区長就任
1993年、民主プラットフォーム(Plataforma Democrática)からリマ市長選に立候補し、得票で3位に入りました。1996年には3度目となるビジャ・エル・サルバドル区長に選出され、1998年10月には約8年前にも経験したリマ市評議員の職を再び引き受けています。
教育者・著述家としての顔
アスクエタは小・中等教育向けの社会科学教科書の著者であり、ペルーとスペイン両国の新聞でコラムニストとしても執筆活動を続けてきました。教育、コミュニケーション、オルタナティブな開発、自治体民主主義などをテーマに、国内外の多くのフォーラムで講演者として登壇しています。
CARE「年間最優秀国際人道活動家」賞
1999年3月、国際NGOのCAREは、青少年の教育、女性組織の強化、零細企業(マイクロビジネス)の育成、保健センターの設立などにおける地域社会への貢献を評価し、アスクエタに「年間最優秀国際人道活動家(International Humanitarian of the Year)」賞を授与しました。この賞は1991年以降、途上国の人々の生活の質向上に深い献身を示す人物に贈られているものです。米国アトランタで開かれた授賞式には、当時の国連事務総長コフィ・アナン氏が出席し、ノーベル平和賞受賞者のデズモンド・ツトゥ大主教が基調講演を行いました。
今もビジャ・エル・サルバドルに生きる
アスクエタは現在も存命で、ビジャ・エル・サルバドルの住民として暮らしています。砂漠の荒れ地だった場所をモデルシティへと変えたこの地区の歴史、リマの新興地区の発展、そしてペルーの現代史において、彼は欠かすことのできない存在なのです。