ロシア・スイスの画家マリアンヌ・フォン・ウェレフキン(Marianne von Werefkin、1860年〜1938年)は、美術における革新と心からの感情表現を生涯の使命として追求した女性です。彼女は表現主義の様式で風景、人物、そして日常の一場面を描き、20世紀初頭の前衛芸術運動において重要な役割を果たしました。

若き日の画家
マリアンヌ・フォン・ウェレフキンは1860年9月11日、エカチェリンブルク(ウラル地方の都市)連隊の司令官を務める父のもと、貴族の家庭に生まれました。父は皇帝ツァーリのお気に入りの一人であり、8年後にはヴィルナ(現在のリトアニアの首都ヴィリニュス)へ転任します。こうして幼いマリアンヌは、当時ロシア帝国の一部であった現在のリトアニアで育ちました。
マリアンヌは典型的な貴族教育を受けます。イコン画家でもあった母親は、娘の持つ芸術的才能を伸ばすよう励ましました。幼い頃から才能を示していた彼女は14歳でデッサン学校に入学し、20歳の時にはロシア最大の写実主義画家イリヤ・レーピンの弟子となります。
しかし順調だった道程は、1888年に突如として中断されます。狩猟中の事故で自分の右手を誤って撃ってしまい、深刻な負傷を負ったのです。長いリハビリテーションの期間を経て、彼女は再び右手で描くことを一から学び直さなければなりませんでした。事故はキャリアの終わりを意味しかねない出来事でしたが、粘り強い努力の末に絵筆を再び手にすることに成功します。やがて師レーピンの写実主義から距離を置き、独自の画家としての道を歩み始めました。
アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーとの出会い
1892年、マリアンヌは27歳の画家アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーと出会います。下級軍人貴族の出で、同じくレーピンの弟子でした。二人はたちまち強く深い関係を結びます。マリアンヌはアレクセイに強く魅了され、1896年に彼が除隊すると、ともにロシアを離れてミュンヘンへ移住しました。
父の遺産のおかげで、マリアンヌはミュンヘンの芸術家街シュヴァービングにアパートを借りることができます。二人はアントン・アズベの私立美術学校で学び続けました。またマリアンヌは自宅をサロンとして開放し、賑わう芸術文化活動の中心的存在となりました。学校とサロンを通じて、二人はガブリエレ・ミュンター、ヴァシリー・カンディンスキーなど多くの芸術家と交流するようになります。
ところが、サロン運営とアレクセイのキャリア支援に献身するあまり、マリアンヌ自身はほぼ10年間ものあいだ絵を描くことをやめてしまいました。当時の日記は、この創作空白期の理由を物語っています。彼女はまさに個人的・自我的・芸術的な危機のただ中にありました。写実主義にも象徴主義にも自分を見出せず、芸術は根本的に刷新され、真摯な感情を探求すべきだと確信していたのです。そして当時の彼女にとって、芸術革命を成し遂げられるのは男性だけだと考え、その再生への希望をアレクセイに託していました。
ミュンヘン新芸術家協会(NKVM)の設立
1903年と1905年のフランス滞在で、マリアンヌはアンリ・マティス、ポール・ゴーギャン、そしてポスト印象派の一派ナビ派の芸術に触れます。彼らの大胆な色彩の使い方は、「感情的な芸術」という彼女の求める革新に大きなインスピレーションを与えました。アレクセイの芸術への失望と不貞への幻滅も重なり、マリアンヌは1906年に絵画制作を再開します。
グワッシュ(不透明水彩)やテンペラ(乳濁液を基盤とする絵画技法)を用いて、色彩の力強さと諸芸術の融合を探求。舞踊に関連する数多くのスケッチを手がけ、そこに大きな表現力を見出しました。1907年からは最初の表現主義的作品の制作を開始しています。
1909年、自宅のサロンにおいて、アレクセイ、ガブリエレ・ミュンター、カンディンスキーらとともに「ミュンヘン新芸術家協会(NKVM)」を設立しました。印象主義からの脱却を掲げるこのグループは、同年12月にミュンヘンで最初の展覧会を開催します。しかし内部の対立によりグループはほどなく分裂し、1912年にはフランツ・マルクらも加わった新たなグループ「青騎士(デア・ブラウエ・ライター)」が生まれることになりました。
アスコーナと「グローサー・ベーア」
第一次世界大戦が勃発すると、マリアンヌとアレクセイはスイスへ移住します。ジュネーヴ近郊を経てチューリッヒへ。1918年、二人はついに別れ、マリアンヌはひとりマッジョーレ湖畔の小さな漁村アスコーナに落ち着きました。当時のアスコーナは、芸術文化の交流地へと変貌しつつある土地でした。1924年、彼女はそこで芸術家グループ「グローサー・ベーア(大熊座)」を結成し、亡くなるまでその地で創作活動を続けました。
アスコーナでマリアンヌは、表現主義様式によるスイスの山々の風景画を数多く描く一方で、日常を生きる人々――女性、通行人、労働者たち――の姿も描きました。鋭い心理描写と情感豊かな色彩は、晩年まで衰えることはありませんでした。
マリアンヌ・フォン・ウェレフキンは1938年2月、アスコーナでその生涯を閉じました。





