広島・長崎の原爆投下に関わった重要人物
1945年8月、広島と長崎に投下された原子爆弾は、世界に核兵器の恐ろしさを刻み込みました。この悲劇には、政治家、科学者、軍人、そして一般市民まで、実に多くの人々が関わっていました。ここでは、原爆投下に関わった、あるいはその歴史に深く結びついた重要な人物を紹介します。
原爆投下を決断した指導者
ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman)
アメリカ第33代大統領。フランクリン・ルーズベルト大統領の急逝を受けて1945年4月に就任し、広島と長崎への原子爆弾使用という最終決断を下しました。
マンハッタン計画の中心人物
ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer)
アメリカの理論物理学者。原子爆弾を開発した極秘計画「マンハッタン計画」の科学研究主任を務め、「原爆の父」と呼ばれています。後に「私は死の神となりしを見り」という言葉を残したことでも知られています。
レスリー・グローヴス(Leslie Groves)
アメリカ陸軍の将軍。マンハッタン計画全体の指揮官として、計画の管理と推進を統括しました。
ポール・ティベッツ(Paul Tibbets)
広島に原爆を投下したB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長を務めたパイロットです。
日本側の軍人・政治家
山本五十六(Isoroku Yamamoto)
大日本帝国海軍の大将で、第二次世界大戦中は連合艦隊司令長官を務めました。真珠湾攻撃には慎重論を唱えたとも言われますが、作戦決定後はその計画を自ら立案・指揮しました。
東條英機(Hideki Tojo)
陸軍出身の政治家で、1941年から1944年まで内閣総理大臣を務めました。対米開戦の決断に大きな責任を負った人物です。
日本の核研究を主導した科学者
仁科芳雄(Yoshio Nishina)
日本を代表する物理学者。戦時中、日本独自の原子爆弾開発計画である「ニ号研究」を主導しましたが、日本が原爆を完成させることはありませんでした。
被爆者として歴史に名を残した人々
山口彊(Tsutomu Yamaguchi)
長崎出身の技術者。出張先の広島で被爆した後、翌日帰郷した長崎でも再び被爆しました。広島と長崎の両方の原爆被爆を生き延びた唯一の公式認定者(二重被爆者)として知られます。2010年に93歳で亡くなるまで、核廃絶を訴え続けました。
佐々木禎子(Sadako Sasaki)
広島原爆投下当時2歳だった少女。放射線の影響で白血病を患い、1955年10月に12歳で亡くなりました。病床で折り鶴を折り続けたことから「折り鶴の少女」として知られ、その姿は今も平和の象徴となっています。
原爆の惨禍を世界に伝えた人々
ジョン・ハーシー(John Hersey)
アメリカのジャーナリスト。1946年に発表したルポルタージュ『ヒロシマ』で、被爆者の生々しい証言を世界に伝え、原爆の実像を知らせる上で大きな役割を果たしました。