ガリア戦争の終幕となったアレシアの戦いは、紀元前52年8月、ユリウス・カエサル率いるローマ軍団が、ウェルキンゲトリクス指揮下のガリア連合軍に勝利した戦いである。ゲルゴヴィアで勝利を収めていた若きガリアの指導者も、巧みなローマ軍の反撃によってアレシアへの退避を余儀なくされた。わずか数日のうちにオッピドゥム(砦状集落)は壮大な土塁工事に包囲され、救援軍の攻勢も籠城側の出撃も、ローマ軍が築き上げた強固な防御体系の前にはことごとく阻まれた。ついにウェルキンゲトリクスは降伏し、その軍は崩壊した。アレシア陥落は主要なケルト諸民族の服属へとつながり、ローマ属州ガリアはやがて帝国屈指の繁栄を誇る地域となっていく。
背景:ガリア戦争
ゲルゴヴィアとアレシアの二つの包囲戦は密接に連動しており、ガリア戦争における二大事件であった。紀元前52年、ガリア全土がすでにローマの支配下に落ちたかに見えたとき、アルウェルニ族の首長ウェルキンゲトリクスが立ち上がり、ガリア諸部族の大部分を結集することに成功する。焦土作戦と補給線への執と補給線への執拗な攻撃を駆使した彼は、「難攻不落」とされたために手つかずのまま残されていたアウァリクム(現ブルージュ)を除けば、ローマ軍を飢えさせる寸前まで追い込んだ。
しかしアウァリクムの住民は虐殺され、食料を補充し直したカエサルは6個軍団と同盟ガリア兵を率いてゲルゴヴィア(おそらくクレルモン=フェラン近郊)へ進撃した。だがこの包囲戦は惨憺たる失敗に終わり、カエサル自身が、オッピドゥムへの突撃で46人のケントゥリオ(百人隊長)を失ったことを認めている。さらにアエドゥイ族騎兵の離反によりプロウィンキア(南ガリア)との連絡路を断たれる危機に直面したカエサルは、北へ急行して副将ラビエヌスのもとに残していた4個軍団と合流するしかなかった。
ここに至り、華々しい勝利と強敵の退却、そしてガリア諸族の次第な結集に自信を深めたウェルキンゲトリクスは、優勢な騎兵を活かしてカエサルの退路を断ち、奇襲によって包囲しようと試みた。しかしローマ軍団とゲルマン人補助兵の激しい抵抗によってこの企ては挫折し、敗走したガリア軍はブルゴーニュ地方の大オッピドゥム、アレシアへ一斉に撤退せざるを得なくなった。ここでローマ軍の組織力と攻城術(ポリオルケティクス=包囲戦の技術)が遺憾なく発揮される。守備側は、塔を備えた二重の要塞線と、壕や障害物によって完全に包囲されたのである。
アレシアにおける包囲戦の技術
アレシアは面積約100ヘクタールの要塞化された台地である。その防御体系は、東西の急崖と、ムルス・ガリクス(ガリア式城壁)工法で築かれた厚い城壁に依拠していた。紀元前52年の包囲戦でローマ軍が向き合わねばならなかったのは、オッピドゥムの守備隊だけではなかった。ウェルキンゲトリクス救援にやって来たガリア大軍も相手にしなければならなかったのである。わずか5週間で、ローマの軍団兵はそれまで前例のない要塞システムを築き上げた。石と芝土を用いた、二重の要塞線による防護網である。
第一の線「対城壁線(コントラヴァラティオ)」は全長15kmで、籠城中の8万人のガリア兵の出撃に備えてオッピドゥム側に向けられた。第二の線「周城壁線(キルクムヴァラティオ)」は全長20kmで、外側に向けて構築され、救援軍の接近を阻止するものであった。発掘調査では、逆茂木や狼井(落とし穴の罠)といった武器・仕掛け、さらにはケルト系・ローマ系の貨幣が実際に出土しており、防御設備が多層的であったことが確認されている。
ローマ軍の巧妙な防御施設
各要塞線には、ローマ軍への接近を阻止するための障害物が設けられた。幅4.5m、深さ2.5mの壕が2本掘られ、深さ90cmの穴が千鳥状に配置され、その底には先の尖った杭が打ち込まれた。穴は柴で覆われて隠された。さらにその先には、深さ1.5mの壕が5列並び、互いに結び付けられた大きな枝(逆茂木)が固定されていた。これらの線上には高さ4mの塁壁が巡らされ、高い木造の櫓が随所に配された。
ローマ軍の兵力は10〜12個軍団、すなわち約7万人の軍団兵であった。救援軍到着以前のウェルキンゲトリクスは8万人を擁し、1か月は持ちこたえられる状況にあった。ところが25万人の歩兵と8000騎からなるガリア救援軍が到着したのは2か月後であり、この頃には飢饉と水不足が市内に深刻な打撃を与え始めていた。無用の人命損失を避けるため、ウェルキンゲトリクスは民間人を城外へ追放する命令を出した。ガリア救援軍の騎兵がローマの防御線への突入を試みると、彼らは撃破され、大挙して打って出たカエサルのゲルマン騎兵に追撃された。
アレシアの戦い
遠征の命運を決め、ガリアの将来を根底から左右することになった決戦は、紀元前52年8月か9月の満月の夜に行われた。6万人(?)からなる精鋭部隊が外側からローマ軍の北側野営地を攻撃し、同時にウェルキンゲトリクスが総出撃を敢行したのである。「ウェルキンゲトリクスはアレシアの城塞の頂から自らの兵士たちを目にすると、広場を離れ……束薪、棒、防盾、鎌など、出撃のために準備していたあらゆるものを前線へ運ばせた」(カエサル)。
「いたるところで同時に戦闘が起こり、あらゆる工作物が攻撃された。弱点と思われる箇所には大挙して殺到した」(カエサル)。しかしガリア軍は、ラビエヌスのもとへ増援として派遣された2個軍団、および別の1個軍団を率いるラビエヌス本人と、要塞線から引き抜かれた多数の分遣隊を押し切ることができなかった。一方カエサルは自ら攻撃を退けると、大挙して副将たちの救援に向かい、騎兵を繰り出して後方からウェルカッシヴェッラウヌスの部隊を襲わせ、これを捕虜とした。
救援軍は潰走し、籠城側も補給不足のままローマの防衛線を突破できなかったため、翌日ウェルキンゲトリクスは降伏を申し出るほかなかった。彼は最良の武具を身にまとい、ユリウス・カエサルのもとへ赴いて自分の馬と装備を献上した。プルタルコス、フロルス、ディオン・カッシウスら複数のローマ文献がこの降伏を伝えている。ディオン・カッシウスによれば、ウェルキンゲトリクスは「捕らえられておらず傷も負っていないのだから逃げることもできたが、(かつてカエサルと親交があったことから)赦しを得られるのではないかと望み、取り次ぎもなしに直接彼のもとへ赴いた」という。
モンテーニュのようにウェルキンゲトリクスを拙劣な戦略家とみなす者もいれば、彼をカエサルに匹敵する存在と評価し、アレシアでの不運を惜しむ者もいる。敗因については、カエサルの偽情報工作を挙げる説や、ウェルキンゲトリクスがローマの将軍と通じていたのではないかとする説まである。他方、紀元前52年を通じて、包囲戦の前にも最中にも展開された彼の戦略の妙味を強調する論者も多い。実際この年、ガリア人は農場や村々に火を放ってローマ軍の補給を断ち、孤立させ、一箇所に集中させ、長く苦しい包囲戦によって消耗させようとした。アレシアへの誘い込みもまた、計算ずくであったように見えるのである。
アレシアにおけるカエサル勝利の帰結
ガリア反乱の立役者は、ローマで開かれたカエサルの凱旋式に引き回された末、獄中で絞殺された。敗れた戦士の大半は奴隷とされ、ローマの軍団兵に一人ずつ分け与えられたという。歴史家フェルディナン・ロがやや時代錯誤的な「ガリア的」視点から述べたように、アレシアは「我々の歴史上最大の惨事」である。……惨事か否かは、見方次第だろう。
だがその圧倒的な象徴性に加え、アレシアはその規模と帰結の点で、「フランス領域」の歴史における最大級の会戦の一つに数えられる。古代史料やカエサルの数字を割り引いて実戦兵力をもっと妥当な水準に見積もり直しても、なおその評価は揺るがない。結局のところ、紀元前51年にアトレバテス族のコンミオスが指揮した最後の反乱以降、ガリアは確固としてローマの支配下に入り、以後およそ5世紀にわたってその統治が続くことになり、そこからガロ=ローマ文明が生まれるのである。
数多くの仮説が唱えられた末、アレシアの所在地は現在、コート=ドール県アルズ=サント=レーヌの高台にある遺跡と特定されている。
参考文献
『アレシア 紀元前52年』ヤン・ル・ボック著、Texte社、2019年。
『ガリア戦記』ユリウス・カエサル著、GF(ガルニエ=フラマリオ)版、1993年。