ストラスブールの戦い(アルゲントラトゥムの戦い、西暦357年)は、皇帝「背教者」ユリアヌスが指揮するローマ軍と、ガリア侵攻を図るアレマンニ族諸部族の連合軍が衝突した会戦である。4世紀のローマ帝国は、辺境での勝利的な軍事作戦によって軍の威信を回復しつつあった時期であり、この戦いで頭角を現したユリアヌスは、ライン川沿いにおける大規模な蛮族侵入に一時的な終止符を打ち、莫大な名声を手に入れることとなった。
戦いの背景
357年、従兄にあたるコンスタンティウス2世によって2年前にガリアのカエサル(副帝)に任じられた若きユリアヌスは、帝国領内に平穏を取り戻すべく、ライン川国境でアレマンニ族との戦いに臨んでいた。そもそもアレマンニ族が帝国領内の複数の都市や要塞を占拠していたのは、コンスタンティウスが簒奪者マグネンティウスとの闘争において、敵の背後で蛮族の攻撃を煽り、弱体化させようとしたことに起因する。しかしミュルサの戦い(351年)で勝利を収めた後も、皇帝は国境の状況を解決しないまま放置しており、アレマンニ族は依然としてその地に居座り続けていた。ペルシア・サーサーン朝の動向に追われていたコンスタンティウスは、従兄に対してライン川から蛮族の脅威を一掃するよう命じたのである。
とはいえ、対抗勢力に極めて警戒心の強かったコンスタンティウスは、新たなカエサルの周囲に自らの腹心を多数配置し、この「潜在的な反逆者」を監視下に置いた。それでもユリアヌスは大胆さと先見性をもって行動し、数年のうちに状況の立て直しに成功していく。しかし、彼の作戦によってもアレマンニの脅威は完全には打破されなかった。実際、バルバティオ将軍の軍は蛮族の奇襲を受けて壊滅的な敗北を喫している。
暴発する暴力とユリアヌスの決断
この敗報を聞くや、複数のアレマンニ人の王たちは手を結び、かつて帝国から征服した領土の奪回を目指した。名を連ねたのはクロドマイル、ウェストラルプ、ウリウス、ウルキシヌス、セラピオン、スオマイレ、ホルタイレらである。さらに蛮族を一枚の旗印の下に結束させた出来事もあった。ローマ人に忠実だった王ゴンドマドが待ち伏せに遭って殺害されたのである。歴史家アンミアヌス・マルケリヌスによれば、この裏切りがローマへの反乱を決定的に促したという。
バルバティオ軍の親衛隊(スクタリア)からの脱走者によって、ユリアヌス軍の兵力がわずか約1万3000人であることを知らされた蛮族側は、おそらく自軍が約3万人であることを考えれば、容易な作戦だと考えていた。それにもかかわらず、カエサル・ユリアヌスは会戦を決意し、陣営を出て蛮族の塁壁へと進軍した。敵に接近すると軍を集結させ、兵士たちへ力強い訓示を行う。皇帝が自ら陣頭に立つことに誇りを抱いた兵士たちは、鬨の声と盾を打ち鳴らす音が入り混じる大熱狂を巻き起こした。
こうした振る舞いは、当時のローマ兵士に典型的なものであり、蛮族にも通じる形で、荒々しい暴力の誇示によって武勇への情熱を表現するものだった。そして「奇跡的な指導者」として君臨する勝利の皇帝の存在が、兵士たちの闘志をいっそう高めた。また上級将校たちも交戦に賛成していた。敵が略奪しながら田園地帯に散開してしまうと、作戦は戦術的・補給的に悪夢のような様相を呈し、民間人への恐怖も広がるからである。さらにローマ軍の自信を強めたのは、ユリアヌスがかつてライン川の向こう、蛮族の本拠地で行った作戦だった。そこでは敵は戦わずして退却し、何の抵抗も受けなかった。ローマ人たちは、自らの土地を守ろうともしない臆病者と戦うのだと思い込んでいたのである。
両軍の布陣
ローマ軍はライン川からほど近い、緩やかな傾斜のある丘に陣取った。まもなくアレマンニ人の斥候が捕虜となり、蛮族が三日三晩かけて川を渡河し、こちらへ迫りつつあることを明かした。ほどなく兵士たちの目に、平原に広がりながら楔形陣形を組む蛮族の戦士たちが飛び込んできた。これは狭正面から猛然たる突撃で敵線を突破することを狙う攻撃陣形である。ローマ軍の対応も素早く、兵士たちは「破壊不可能な壁」(アンミアヌス・マルケリヌス『歴史』16巻12章20節)を形成した。当時のローマの盾は主に円形で、その防御力はギリシア式の大盾に比肩しうると評される。
蛮族側は、古代ゲルマン以来の戦術にのっとり、左翼に軽装歩兵を混ぜた自軍騎兵を配置して、右翼のローマ騎兵に対抗した。さらに右翼では森を掩護として数千の戦士を前進させ、ローマ軍を待ち伏せしようとした。先頭には模範を示すべく王たちが陣取った。この連合の精神的支柱クロドマイルは、アンミアヌスに「屈強な筋肉を持つ恐るべき戦士」と描写されている。右翼を指揮したセラピオンの名は、ガリアで人質として抑留されていた父が東方宗教の秘儀入信者だったことに由来するという。
一方のローマ軍では、セウェルスが指揮する左翼が、蛮族の待ち伏せを察知した彼の命令で前進を停止した。ユリアヌス自身は200騎の精鋭騎兵を率いて列の間を駆け、兵士を鼓舞した。ただしアンミアヌスが指摘するように、彼はあまりに名誉を求める姿を見せないよう配慮してもいた。コンスタンティウスが厳重な監視員をつけていたからである。彼は可能な限り整然と部隊を並べ、戦士としての誇りに訴える大声を上げ続けた。
ユリアヌスは戦列を二線に構え、精鋭軍団プリマーニを予備に残し、第一線には同水準の重装備を誇るパラティーナ輔助軍(アウクシリア)を配置した。当時の軍団は規模が縮小され、おそらく千人程度だった。旧来の5000人規模の軍団よりも機動性の高い集団であり、蛮族が得意とする小規模戦闘(小戦争)においてはるかに有効だったのである。同様にパラティーナ輔助軍の各部隊は500人編成だが、通常は二個部隊がペアで運用された。第一線の右側に配置されたコルヌーテスとブラッキアテスがその例である。
これらの部隊は主として蛮族世界から募集されたが、その闘志とローマ帝国への忠誠心は特筆に値する。あらゆる戦域で信頼できる部隊であり、ときには制御が困難になるほど凶猛でさえあった。いずれにせよ、ローマ兵が常に完璧な規律を示したと想像してはならない。ローマ人は、全員の利益になる場合には、華々しい活躍のために兵士へ相当の自由を与えており、そのための名誉ある報酬制度も用意されていた。
激突
ユリアヌスが陣形を固めると、蛮族の軍から憤りの叫びが上がった。騎乗した指導者たちが、敗北の場合にはその優位を利用して部下を見捨て逃げ去るのではないかと、兵たちが恐れたのである。そこで王たちは馬から降り、兵士の間に身を置いて彼らの勇気を固めることにした。やがてトランペットが開戦の合図を奏で、両軍の激突は極度の喧騒の中で起こった。ローマの戦列は粘り強く抵抗し、蛮族の狂乱的な猛攻に対して自軍の秩序で対抗した。しかし右翼では、ローマ騎兵が蛮族騎兵および散兵との戦闘から離脱してしまった。
ユリアヌスはこの崩れの先頭に立って兵を再集結させ、彼らは元の配置へ戻っていった。コルヌーテスとブラッキアテスも卓越した武勇を発揮し、その不屈の勇気で敵を圧倒した。戦いの最中、アレマンニ軍はなんとかローマ戦列の中央を突破することに成功する。だが直ちに第二線が介入し、プリマーニ・レゲス軍団とバタウィ人が援護に回って危機を退けたのである。アンミアヌスは戦闘の記述の中でアレマンニをローマ人と同等の戦士として描いている。これはユリアヌスの武勲を際立たせる意図もあっただろうが、蛮族の戦闘価値への敬意の表れでもある。忘れてはならないのは、ローマ軍自身も無視できない割合で蛮族出身者を含んでいたという点だ(ただし、この軍をほぼ全面的に蛮族製と見なす極端な見方もまた誤りである)。
蛮族の壊走
戦いは激しく、ほぼ膠着状態のまま続いたが、死者の数では明らかに蛮族側が多かった。より良く防護され、より職業的なローマ軍は敵の攻勢を耐え抜き、ついに蛮族を崩壊させて敗走させ、軽装部隊がこれを追撃した。虐殺は凄惨を極め、恐怖に駆られた蛮族の多くはライン川へ泳いで逃げようとし、大量の溺死者を出した。同じ頃、破局から逃れたクロドマイルは少数の戦士とともに戦線を離脱し、木々の生い茂る丘に身を隠そうとしていたが、ローマのコホルス(歩兵隊)に追いつかれ、包囲されて降伏した。
両軍の損害は極めて不均衡で、ローマ軍の優れた訓練と防具の質を物語っている。ローマ側の損害は兵243名と士官4名にとどまったのに対し、アレマンニ側は戦場に6000人の遺体を残し、ライン川で溺死した数は不明である。アンミアヌスの集計は極めて信頼でき、その記述から損害の実数に疑いの余地はない。ここで想起されるのは、もう一つの有名な会戦――マラトンの戦い――の数字である。アテナイ人は倒れたペルシア人一人ひとりに犠牲を捧げるつもりで死者を正確に数えたと言われ、ギリシア側の戦死者192名に対し、ペルシア側は約6400名を失ったという。
戦いの顛末
戦後、クロドマイルは人質としてローマへ送られ、生涯をそこで終えた。ユリアヌスは優位を無駄にせず、これを利用して蛮族の領域へ血なまぐさい攻勢を仕掛け、国境を恒久的に安定させた。ストラスブールの戦いは、何よりも若きユリアヌスの戦術的価値と、人間を鼓舞し超越させる能力を測る物差しとなる戦いであった。彼の武勇伝は象徴的であり、以後、野戦で敗れることは一度もない。彼の兵士たちは、コンスタンティウス2世のもとへの従軍を拒んだのと同じ人々でありながら、灼熱のペルシアの砂漠へと彼についていくことになる。勝利の栄光に輝いたユリアヌスは、「フォルトゥナ(幸運女神)に祝福された勝利の皇帝」となり、兵士たちの心を完全につかんだ今、抑圧的な監護からの自立へと動き出すことになるのである。
参考文献
Philippe Richardot, La fin de l'armée romaine, Economica, 3rd edition, 2005.
Pierre Cosme, L'armée romaine, Armand Colin, 2007.
Jon E. Lendon, Soldiers and Ghosts, Tallandier, 2009.
さらに読む
Glen W. Bowersock, Julian the Apostate, Armand Colin, 2008.