歴史物語

レイプ、結婚、そして自殺――独裁者スターリンと妻ナジェージダの14年間の悲劇

スターリンの妻となった女性の悲劇

ナジェージダ・アリルーエワは、ヨシフ・スターリンとともに14年間の不幸な結婚生活を送った。公式記録によれば、彼女は1932年に自ら命を絶った。独裁者スターリンは妻の死の責任を問われたが、おそらく彼自身が引き金を引いたわけではない。

運命の出会い

16歳のナジェージダ(愛称ナディア)が38歳のスターリンと出会ったのは1917年、同じく革命家であった父セルゲイの家でのことだった。ただし、初めての出会いについては、よりロマンチックな逸話も伝えられている。ナジェージダが2歳だった頃、一家はバクーに住んでいた。ある日遊んでいた彼女はカスピ海に落ちてしまう。その場に居合わせたスターリンは水に飛び込み、のちに自らの妻となる少女を救い出したというのだ。

もちろん、これは家族に語り継がれた美しい伝説にすぎないだろう。現実のナジェージダの人生には、悲しみがつきまとっていた……。

釣り合わぬ結婚とレイプ

スターリンと出会った当時、ナディアは女子ギムナジウム(高等女学校)の生徒だった。彼女の日記によれば、頭の中は日常的な出来事で占められていた。1917年10月1日付の日記にはこう記されている。

「どこも物価が高い。卵もパンも肉はたくさんあるのに[…]。全般的に退屈だ。幸い一昨日は演劇の先生と一緒に『ソロチンスクの市』[ゴゴリの戯曲]を見に行った」

痘痕(あばた)だらけの無骨なヨシフに、若いナディアが何を魅かれたのかは想像しがたい。

ボリシェヴィキ革命後、スターリンは民族問題人民委員(閣僚に相当)となった。権力が若い娘の目に彼を魅力的に映したのだろうか?

アリルーエワ家の友人イリーナ・ゴグアが後に回想したところによれば、ナジェージダの父セルゲイはこの交際に反対していた。1918年初頭、息せき切ってイリーナのもとへ飛び込んできたセルゲイは叫んだという。「スターリンがナディアを前線へ連れて行った!」

ナジェージダの姉アンナの証言によれば、この奇妙な関係はなんと……レイプから始まったという。

1918年、ナディアは父やスターリン、党の同志たちとともに、ツァリーツィン(後のスターリングラード)への視察団の列車に乗っていた。夜、娘の悲鳴を聞きつけたセルゲイは寝台室へ駆け込んだ。そこで判明したのは、ナジェージダが今しがたスターリンに暴行されたという衝撃の事実だった。

激怒した父はスターリンを撃とうとしたが、スターリンは足元にひざまずき、ナディアとの結婚を懇願した。しかし彼が約束を果たしたのは1920年の秋、ナジェージダが長男ワシリーを5か月身ごもってからのことだった。

立ち込める暗雲

夫妻はクレムリンに住まいを構えた。スターリンは妻を自分の管轄する民族問題人民委員部に職を与えた。二人の生活は非常に質素で、若いナジェージダは色あせたスカートや、脇の下に継ぎ当てのあるセーターを着て過ごした。

しかしアリルーエワはすぐに夫に幻滅することになる。スターリンには爆発的な気性があり、気分の浮き沈みが激しく、しばしば身勝手で横暴な振る舞いに出ることが明らかになったのだ。政治家である夫は、ナディアの年齢や、妻という新しい役割に慣れるまで時間が必要なことを考慮しようとはしなかった。

スターリンは妻に謙虚さ、倹約、従順さを求めた。だがナディアは独立心が強すぎて、夫に屈服することはなかった。結婚後も旧姓を使い続け、掃除や料理をするつもりもなかったのである。
やがてナディアはレーニンの秘書室に職を得た。

レイプ、結婚、そして自殺――独裁者スターリンと妻ナジェージダの14年間の悲劇

子供たちと過ごすスターリン

ヨシフは妻が自分だけに時間を捧げるべきだと考え、家にとどまるよう要求した。そんな彼女の味方になったのがウラジーミル・レーニンだった。スターリンを「アジア的」と呼んだレーニンは、ナジェージダに夫の不満を無視して毎日出勤するよう命じた。職場でナディアは極秘文書にアクセスできたが、夫が幾ら迫ってもその内容を漏らすことはなかった。

1926年、夫妻には次女スヴェトラーナが生まれた。ナディアはその後さらに10回妊娠するが、いずれもスターリンの要求により中絶している。

ヨシフが国家の指導者となっても、アリルーエワは質素な暮らしを望み、豊かな生活を誇示しようとしなかった。1929年、彼女は工業アカデミーに入学する。政府用の車で通学する際、彼女は運転手に大学の建物から1ブロック離れた場所で降ろすよう求めた。ボディガードをつけることも拒否し、「誰も自分の夫が誰か知らない」と無邪気に信じていたのである。

彼女はためらうことなくヨシフに、「人民の敵」への弾圧を支持しないと告げた。1930年、モスクワでは「サボタージュと破壊活動」にかかわったとして8人の技師に対する見せしめ裁判が始まった。アリルーエワは工業アカデミーでの学業を通じて被告たちやその家族と知り合い、有罪判決後も親族との交流を保ち、裁判所の判決に同意できないことを公然と口にした。

クレムリンのスターリン邸内の空気は緊張の極みに達し、ナディアは何度か子供たちを連れて夫の家を出た。その際はレニングラードの親戚のもとに身を寄せている。夫は電話で帰宅を促したが、アリルーエワは頑として応じず、結局は実の家族の説得によってクレムリンへ戻ることとなった。

自殺か、それとも他殺か?

1932年11月7日の夜遅く、十月革命15周年の祝賀パーティーがクリメント・ヴォロシーロフの邸宅で開かれ、党の要人たちとその夫人たちが集まっていた。その席でスターリンはナディアをからかい、パンくずの玉を投げつけたという。明らかに動揺したアリルーエワはヴォロシーロフの部屋を後にし、翌日、死体となって発見された。頭部を撃っての自殺だった。31歳だった。
スターリンは打ちのめされたが、その絶望は妻への愛ゆえではなく……怒りによるものだった。

彼は侮辱されたと感じたのだ。夫のもとを去ったナディアは、彼の評判を地に落とし、家門の名誉を汚した!
夫妻の娘スヴェトラーナの回想によれば、亡き母に別れを告げる際、スターリンは棺を荒っぽく押しのけてその場を去ったという。

レイプ、結婚、そして自殺――独裁者スターリンと妻ナジェージダの14年間の悲劇

ナジェージダ・セルゲーエヴナ・アリルーエワの葬儀――モスクワ、1932年

スターリンは葬儀に姿を見せることはなく、以後も墓を訪れることは一度もなかった。同時に彼は死因の調査を禁止した。関与を疑われることを恐れていたのか?それとも、妻の殺害を腹心の部下に依頼していたのか?

何年も後、ナジェージダの遺体の処置にあたった女性たちの手記が出版された。その日記によれば、故人の首には指紋のような痕が残されていたという。またニキータ・フルシチョフはこう述べている。「私は確信している。スターリンが何かを言ったか、何かをしたことが、ナディアの死につながったのだと。」