歴史物語

幼児虐殺は本当に起きたのか?――ヘロデ大王とベツレヘムの悲劇を歴史学的に検証する

「幼児虐殺」裁判、検察側の証人はマタイによる福音書のみ

ヘロデ大王が「幼児虐殺」の罪で法廷に立ったとしたら、検察側の立証は極めて困難だろう。証人はマタイによる福音書の著者ただ一人。被告人の弁護のほうがはるかに有利だ。状況証拠のみの裁判で、有罪判決を勝ち取れるだろうか?

マタイによる福音書の記述

唯一の検察側証人であるマタイによる福音書の記述はよく知られている。新共同訳聖書では次のように訳されている。

ヘロデは、博士たちに欺かれたことを知って激怒し、部下をベツレヘムとその周辺一帯に派遣し、博士たちから聞き出した時期に基づいて、二歳以下の男の子をことごとく殺させた。

犠牲者数は何人か?――後世の誇張と現実的な推計

後世の著者たちは聴衆を衝撃づけようと、犠牲者数を誇張した。ヒエロニムスは「多くの幼児たち(multa parvulorum milia)」、つまり「数千人」と書き、さらに1万4千人、6万1千人、9世紀のフランスの修道士ウスアルドはなんと14万4千人の幼児が虐殺されたと記している。

もし14万人もの幼児がいたなら、ヘロデの兵士たちは呆れ返ったことだろう。

ベツレヘムの人口規模から見た現実的な数字

参考までに、2003年のポーランドでの出生数は35万1千人だった。ところが話題に上っているのはベツレヘムとその周辺のみで、せいぜい日本の半個分ほどの面積しかない。

紀元前1世紀末、ベツレヘムの人口は1千人説と、W・F・オルブライトやC・S・マンらのように300人説がある。当時の高い乳幼児死亡率を考慮しても、二歳以下の男児は6〜7人からせいぜい20〜30人程度と推計される。

「幼児虐殺」モチーフの普遍性――スノーホワイトまで

イギリスの研究者リチャード・T・フランスは、幼少期に「命を狙われた」偉人の物語が珍しくないことを指摘する。「幼児虐殺」に独自性は一切ない。

  • アッカド王サルゴン(紀元前2279年頃没):母親によってユーフラテス川に籠で流される
  • モーセ:エジプト王の命令でヘブライ人の男児が殺される中、生き延びる
  • ペルシャ王キュロス2世:祖父が予言を恐れて殺そうとし、死産児とすり替えられ生き延びる

フランスは歴史・神話だけでなく、『白雪姫』まで例に挙げる。継母が運命を知り、白雪姫を殺そうとする物語だ。

実在の人物でも、幼少期に奇跡的に助かった例がある。フランス王ジャン1世(生後数日で夭折、1316年生)は母親の子とすり替えられ生き延びたとされる。ポーランド王ジグムント3世ヴァザ(1566年生)は、狂気の叔父エリク14世(スウェーデン王)に「聖書のヘロデの役を演じてやる」と殺害を命じられたが、エリクの愛妾カリン・モンスドッテルの機転で助かった。

より近代では、最後のロシア皇帝ニコライ2世の娘アナスタシアが、1918年のボルシェヴィキによる家族虐殺から奇跡的に生き延びたという噂が広まった。

「同じことは二度起きない」という先入観

フランスの議論は弁護側に有利だ。しかしポール・L・マイヤーの反論も紹介しておこう。論文「ヘロデとベツレヘムの幼児たち」で、モーセ誕生神話との類似性を見て「幼児虐殺は神話だ」と断じる研究者たちは、無意識に「同じことは二度起きない」と決めつけていると指摘する。

「エジプトでユダヤの子供たちが殺されたなら、別の場所でユダヤの子供たちが虐殺されることはあり得ない、だから幼児虐殺は神話だ。――第二次世界大戦中のホロコーストでユダヤの子供たちが虐殺されたことは、神話ではなかったことを私は敬意をもって指摘しておく」

弁護側の切り札:ヨセフスの沈黙

史実性を疑う最大の根拠は、ヘロデ大王の治世を詳細に記したユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフス(37年生、イエス誕生から40年以上後)が、この事件に触れていないことだ。『ユダヤ古代誌』にも『ユダヤ戦記』にもベツレヘムの虐殺は出てこない。

しかしこれには理由がある。第一に、ヨセフスの主要情報源であるダマスコのニコラオスはヘロデの友人であり、王に都合の悪い事実を意図的に省いた可能性が高い(ヨセフス自身もそう指摘している)。

第二に、もっと単純な理由も考えられる。ヨセフスが耳にしていたとしても、数千人規模の大虐殺ではなく、「行き止まりの村で数人、せいぜい十数人の乳児が死んだ」程度の出来事なら、記録する価値がないと判断した可能性だ。当時、親たちでさえなぜ我が子が殺されたのか知らなかったかもしれない。兵士が「東方の博士たちが未来の王の誕生を告げたが、どの家か特定できないから、二歳以下の男児を全員殺す」などと丁寧に説明したとは思えない。

ついでにいえば、ヨセフスの読者層はギリシャ・ローマ世界であり、彼らにとって子供の命は軽いものだった。「ギリシャ人は避妊手段として乳児殺しを日常的に行い、特にスパルタでは顕著だった。ローマ人の父親には、子供を門前に捨てて死なせる権利があった」(マイヤー)。エルサレム郊外の無名の村で数人の乳児が死んだくらいでは、ヨセフスがわざわざ筆を取ることはなかっただろう。

新たな検察側証人?――使えない二つの資料

マタイ以外の資料を探すのは骨が折れる。二つ見つかるが、どちらも真面目な歴史家は根拠にしない。

  1. 『モーセ昇天記』(紀元前4年頃成立説あり):ヘロデが「モーセの時代のファラオのように老若を殺す」との預言が記される。関連性は薄く、マタイとの依存関係が見え見えだ。
  2. マクロビウス『サトゥルナリア』(400年頃成立):ヘロデがシリアで二歳以下の男児を、自分の息子も含めて殺したとある。年代的に遅すぎるうえ、成人していたヘロデの息子たち(アンティパトロス、アレクサンドロス、アリストブロス)と幼児虐殺が混同されている。

被告人ヘロデに「犯罪能力」はあったか

幼児虐殺の史実性を論じる際、ヘロデの残虐行為が列挙される。三人の息子、妻、義理の弟、義母、妻の祖父……今の感覚では恐ろしいが、「古代最凶の支配者ランキング」があれば、ヘロデはトップ20にも入れないだろう。

キリスト教を公認したコンスタンティヌス1世でさえ、妻と息子を殺している。ヘロデの場合、重要なのは晩年に見せた偏執的なパラノイアだ。三人の息子を相次いで殺し、自分の死後にユダヤの要人たちを処刑させて「誰も私のために泣かないなら、彼らを殺せば泣むだろう」と命じた人物である。

この文脈では、ダビデ王の故郷であり、ヘブライ最大の王朝の揺りかごでもあるベツレヘムで、数人〜十数人、あるいは数十人の男児を殺す命令を出したとしても、不自然ではない。まぶた一つ動かさずに実行しただろう。

結論:有罪か、無罪か

ヘロデ大王に有罪判決を下せるか?

  • ベツレヘムで14万4千人の男児を殺した罪なら──絶対に無罪。
  • 数人〜十数人の幼児を殺した罪なら──話は別だ。ヘロデには十分な動機と能力、そして実行の残虐性があった。まばたき一つせずに命じただろう。

参考文献

本稿の執筆にあたり、以下の二論文から大きな示唆を得た:

  • Richard T. France, "Herod and the Children of Bethlehem," Novum Testamentum, Vol. 21, Fasc. 2 (Apr., 1979), pp. 98-120.
  • Paul L. Maier, "Herod and the Infants of Bethlehem," in Chronos, Kairos, Christos II, Macon, GA, 1998, pp. 169-189.