法衣をまとったこのナチ党員は、ユダヤ人をからかう楽しみを決して自分に禁じなかった。血なまぐさいポグロム(ユダヤ人虐殺)を直接呼びかけた男である。そんな彼に強い印象を受けたのが、ヒトラーという名の無器用な駆け出し文筆家だった。彼は自らの支離滅裂な独白を紙に書き留めることを決意する。
ヒトラーの口からは、すでに2時間近くも意味不明な言葉が溢れ続けていた。後の総統アドルフ・ヒトラーは、歴史に残る最も邪悪な書物の一つ『我が闘争』を、何日にもわたって口述し続けていたのだ。
彼は1923年11月のミュンヘン一揆(クーデター未遂)の失敗後、収監されたランツベルク刑務所の独房の窓をぼんやりと見つめていた。塹壕で過ごした長い月日の回想と、ヨーロッパの政治情ッパの政治情勢や「裏切り者のユダヤ人」についての言及が混ざり合った言葉を、時折吐き出しては止まなかった。
そのすぐそばの机には、この言葉の混沌を整理し、読める文章に仕上げようとする男がいた。しかし彼の役割はそれだけにとどまらなかった。彼こそ、国家社会主義の聖典ともいうべき本の「名もなき共同執筆者」であり、ヒトラーは後に適切な時期を見計らって彼を始末しようとしていたのだ。
ユダヤ人を憎んだ司祭
ミュンヘン一揆の失敗で獄中につながれたヒトラーは、そこで『我が闘争』を書き上げた。だが、本当に彼一人が著者だったと言い切れるだろうか?
ベルンハルト・シュテンプフレがドイツ極右勢力との関係を深め始めたのは、第一次世界大戦直後のことだった。1919年、彼はナチ運動の将来の中心地となるミュンヘンへ移住。司祭としての活動を続けながら、攻撃的な政治ジャーナリズムにも身を投じた。
その論説の調子はきわめて単調だった。主に書いていたのは、ユダヤ人がドイツ人に及ぼしている深刻な悪影響についてだったのである。彼は新聞紙上で、いわゆる「ユダヤ人の無神論」がドイツ・カトリックにもたらす脅威について激しく訴え立てた。
迫害を呼びかけ、カトリック教徒は自衛のためなら血なまぐさいポグロムさえも躊躇すべきではないと主張した。次第に彼は、ナチ運動の形成を積極的に支持するようになっていった。
ヒトラーの腹心
彼の過激な反ユダヤ主義的攻撃は、左翼系報道機関の嘲笑の的となった。社会民主主義系のジャーナリストたちは彼を「反ユダヤ主義の司教」と呼び、大群衆を「偉大なる鉤十字(ハーケンクロイツ)」へと導く狂信的なカトリック・ナチとして描いた。その憎悪に満ちた低俗な大言壮語は、あざけりの対象となったのである。
しかし、このジャーナリストの反ユダヤ主義的な長広舌を真剣に、注意深く読み込んでいる者が一人だけいた。国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の急進の星、アドルフ・ヒトラーである。
1923年当時、ベルンハルト・シュテンプフレはヒトラーの最側近の一人となり、やがてその腹心となった。写真は1923年、護衛に囲まれたヒトラー。
二人は互いに好感を抱き合っていた。宗教をめぐる話題で長時間にわたり語り合うこともあった。ヒトラーはシュテンプフレの反ユダヤ主義に強い印象を受け、その過激さに触発されていた。一方、司祭の方もナチ運動に積極的に関与していった。
1923年、彼はヒトラーの最も信頼する側近の一人となり、その腹心の地位を確立した。これが、それまでの人生で最も重要な任務――『我が闘争』の仕上げ――への道を開くことになる。
総統の支離滅裂な言葉をどう磨くか
ヒトラーは知識人ですらなく、ましてや独創的な思想家ではなかった。彼の政治思想は、人種差別的な迷信、ナショナリズム的な誇大妄想、そして原始的なダーウィニズムの寄せ集めにすぎない。群衆を催眠術にかけるように魅了する弁士ではあったが、文筆家としては全くの素人だった。『我が闘争』の原型となった素材は、まさに「豆とキャベツの煮込み」のような代物――自伝的な断片と、さまざまな主題への評述がごちゃ混ぜになったものだった。
この乱雑な言葉の山から一冊の本を作り上げ、文体を整える必要があった。その役目を担ったのがルドルフ・ヘスとシュテンプフレである。しかし、前者が知的に完全にヒトラーに従属していたのに対し、シュテンプフレは十分に強い人物であり、執筆中の本に自らの足跡を刻むことができた。
『我が闘争』――ナチズムの聖典。その最終形態の背後にカトリック司祭ベルンハルト・シュテンプフレがいたことを示す証拠は数多くある。
共同執筆者?
シュテンプフレがヒトラーに与えた思想的影響は、『我が闘争』の中でも、ドイツ・ナショナリズムにおける新異教主義者(ネオペイガン)の役割が否定的に描写されている箇所などに如実に現れている。
「こうした連中の大部分に共通する特徴は、古ゲルマン的英雄主義への偏執である。石斧や槍、盾といった霧の深い過去に陶酔しながら、その内実は想像されうる限り最大の臆病者なのである。[...]彼らの活動はすべて、国民を共通の敵であるユダヤ人との闘いから遠ざけるものばかりだ」
狂信的なカトリック教徒であったシュテンプフレは、ナチ運動がゲルマン古代崇拝者たちに支配されることを決して許さなかったのである。
キリスト教を「人類がこれまで被った最悪の災厄」とまで呼び、イエスの宗教に冷淡だったヒトラーでさえ、この司祭の説得には屈した。彼にとってドイツ・カトリック教徒の支持はあまりにも重要だったのだ。キリスト教がもはや意味を持たない帝国を夢見てはいても、今すぐにそれを手放すことはできなかった。
こうしてシュテンプフレの『我が闘争』成立における役割は、ヒトラーの支離滅裂な独白の編集にとどまるものではなかった。彼は事実上の共同執筆者だったが、表紙にその名が記されることはなかった。そして彼は、この共同執筆の代償として最高の対価を支払わされることになる……。
ヒトラーを目にして熱狂する若きナチ党員たち。アイドルのコンサートに集まる中学生ファンさながらである。しかし、ある司祭の支援がなければ、この熱狂は生まれなかったかもしれない……。
森の中の死体
それから10年足らず後の1934年6月30日、ミュンヘン近郊の森の中でベルンハルト・シュテンプフレ神父の遺体が発見された。胸には拳銃の弾丸が3発撃ち込まれ、首は粉々に砕かれていた。SSの処刑人たちは、この司祭に確実に死をもたらそうとしたのである。
彼は「長いナイフの夜」――ナチ運動内部の粛清で、ヒトラーがかつての同志の一部を始末した事件――の犠牲者の一人だった。国家社会主義の聖典がヒトラー単独の著作ではないことを、誰にも知られないようにするためだったのだ……。
編集:クシシュトフ・ハバ(Krzysztof Chaba)/ 写真編集:ラファウ・クザク(Rafał Kuzak)