1885年、ロンドンを揺るがした衝撃のスクープ
1885年7月、英紙『パル・モール・ガゼット』が児童売春を告発する一連の物議を醸す記事を掲載すると、ロンドンは大スキャンダルに包まれた。処女への凌辱や未成年者が劇場関係者に売り渡される実態を綴った6ページに及ぶ文章は、ビクトリア朝イギリス最大の小児性愛スキャンダルの幕開けにすぎなかった。
「現代バビロンの貢物」――世界を駆け巡った衝撃
英国人ジャーナリスト、ウィリアム・トマス・ステッドによる連載記事「現代バビロンの貢物(Maiden Tribute of Modern Babylon)」は、英国全土に激しい嵐を巻き起こした。「処女の凌辱」「ロンドンの奴隷市場」「なぜ被害者の叫びは聞かれないのか」といった衝撃的な見出しの数々に、無関心でいられる読者はいなかった。
わずか数日のうちにステッドの記事は国際的なセンセーションとなり、世界各地の出版社がロンドン編集部に転載の許可を求めた。当時すでに経験豊富なジャーナリストでもあったステッドは、遠慮のない筆致で、当局とビクトリア朝社会が長年にわたり見て見ぬふりをしてきた恥ずべき実態を赤裸々に描き出したからだ。

スキャンダルを告発した記事の著者、ウィリアム・トマス・ステッド
彼は19世紀の児童売春を、神話のミノタウロスに捧げられた7人の少女と少年たちの生贄になぞらえ、こう報じている。
ロンドンの今夜――そして他のどの夜も、年々同じように――7人どころか、ほぼ無作為に選ばれたさらに多くの処女たちが、「現代のバビロン」に生贄として捧げられようとしている。
夜明けまでに彼女たちは破彼女たちは破壊され、翌朝にはロンドンの売春宿の迷宮の中に身を置くことになるだろう。その迷宮では、まるで迷える魂のように大勢の娼婦たちがさまよっている。その数は把握不能だが、おそらく5万人に近い。
子どもたちはどう買われ、どう壊されたのか
続く記事の中でステッドは、最貧層の家庭出身の子どもたち(主に少女だが、少女だけではなかった)が犠牲となる性産業の醜悪な裏側を暴露した。彼はポン引きたちに接触し、富裕な顧客のために「新しい獲物」を調達する手法を聞き出すことに成功した。ステッドが後に述べたところによれば――
ある子どもたちは路上で捕らえられ、監禁された上で「仕込み」を施される。薬物で意識を朦朧させるか、閉ざされた部屋に長時間閉じ込め、長い抵抗の末に弱い者から諦めさせるのだ。
別の犠牲者たちは「注文に応じて」供給される。親から買い取られるか、より良い明日を約束されて誘い出され、女性にとって何よりも大切なものを失うまで、暗い部屋から出ることを許されないのである。
誘拐され、薬漬けにされ、犯された少女たち
取材に応じたある「歓楽宿」の経営者は、強姦の間ずっと意識不明になるほど薬物を盛られた少女の話を語った。目覚めた彼女に与えられた選択肢はただ二つ――売春を続けるか、路頭に迷うかだった。

長年にわたり、この実態は黙認されてきた
ロンドンの街頭での調査を始める前に、ステッドは「経験豊富なスコットランドヤードの警官」にも話を聞いている。その警官によれば、富裕な男なら20ポンドで「特上の処女」を手に入れることができるという。取引に応じた少女たちが自発的なのかという問いに対し、警官は、彼女たちは通常、自分に何が待ち受けているかすら知らず、性行為全体が強姦の特徴を備えていると答えた。記者はこう総括している。
12歳や13歳の子どもはさほど抵抗しない。何が起きているのか、ほとんど理解していないのだ。
場合によっては、娘を凌辱者に売り渡す母親の同意のもとで誘惑されることもある。そういう子どもは、屠殺場へ導かれる子羊のように、加害者の家へと連れて行かれる。ひとたびそこに入れば、後戻りはできない。男がどんなに残酷でも、少女は逃げ出せないのだ。
それだけではない。ステッドは、役人たちの目の前で繁栄していた組織的な児童人身売買にも言及した。彼の調査によれば、15〜40ポンドという価格で、ヨーロッパ大陸の売春宿やポン引きたちがイングランドで「新しい商品」を仕入れていたという。
12歳の少女への需要はあまりに大きく、ポン引きの中には若い娼婦を「育てる」ことに携わる者さえいた。その方法とは?幼い娘を抱えたホームレスの女性を探し出し、「保護」を名目に世話をするのだ。犠牲となる子どもが適齢期に達すると、母親から引き離され、外国の顧客の魅力と財力に応じて大小の金額で売り払われた。
ビクトリア朝の調査ジャーナリズム
未成年の性的奴隷をめぐる人身売買が国際的規模で行われていたことは、ステッドの暴露記事が英国のみならずヨーロッパ全土、さらには海を越えて大きな反響を呼ぶことにつながった。
ステッドの記事は法制改正の基礎となった。1885年、イングランドは刑法修正法(Criminal Law Amendment Act 1885)を成立させ、同意年齢を13歳から16歳に引き上げるとともに、男性間の性行為を犯罪化することで児童売春の抑制を図ったのである。
しかし、物議を醸したのは記事そのものだけではない。情報収集の手法が明らかになると、今度はジャーナリスト本人が砲火を浴びることになった。

ステッドの調査は法制改正につながった
ポン引きや処女を求める顧客に接近するため、ステッドは多くの協力者を雇っていた。その中には『パル・モール・ガゼット』の職員や救世軍の若い女性、そして13歳のエライザ・アームストロングが含まれていた。彼はこの少女を「囮」として利用したのである。アルコール依存症の母親からわずか5ポンドで少女を買い取り、同僚にクロロホルムで眠らせて売春宿へ運ばせ、そこで強姦を演出したのだ。
自らの記事で糾弾した犯罪行為に関与したことで、ステッドは結局、3か月の懲役刑を宣告された。(決め手となったのはエライザの母親の証言だった。彼女は娘を売った理由を理解しておらず、娘が老紳士の屋敷で家政婦になれると信じていたと主張したのである。)
彼はコールドバス・フィールズ刑務所とホロウェイ刑務所で刑に服した。そして人生そのものが、その伝記に悲しい結末をもたらした――1912年4月15日、タイタニック号沈没事故で命を落としたのである。彼が最後に目撃されたのは(おそらく)、即席のいかだで沈みゆく船からの脱出を試みていたときだったという。その後、彼はあの世から語りかけたともいう――娘のエステルがそう主張したのだが――しかし、それはまたまったく別の話である……。