ポーランドの運命は決していた。それでも兵士たちは武器を捨てなかった
祖国ポーランドの運命は、すでに決していたように見えた。しかし、アンダース将軍の兵士たちは武器を手放すつもりはなかった。第二次世界大戦最後の日々、彼らはドイツ軍に痛烈な敗北を味わわせ、イタリア有数の重要都市ボローニャへ解放者として入城を果たしたのである。
モンテ・カッシーノの先へ
モンテ・カッシーノの戦いは、ポーランド第2軍団のイタリアにおける戦いの終わりではなかった。アンダース将軍の兵士たちはその後も数か月にわたり、アドリア海沿岸でドイツ軍と戦い続けた。1945年春、すでにジグムント・シシュコ=ボフシュ将軍の指揮下にあった同軍団は連合軍の攻勢に参加する。この攻勢はポーランド軍によるボローニャ占領で頂点を迎え、イタリア戦線におけるドイツ軍の敗北を決定づけた。
最後の戦い
アメリカのマーク・クラーク将軍が率いる連合軍第15軍集団の攻撃は、1945年4月9日に予定されていた。相手はハインリヒ・フォン・フィーティングホフ将軍指揮下のドイツC軍集団で、18個師団からなる大部隊である。ドイツ軍は冬の戦線の停滞期を利用し、相次ぐ河川の線に沿った要塞化された陣地を整備して、ボローニャへの接近路を固めていた。野戦築城には人工的な氾濫も加えられ、河川にかかる橋は一部が破壊され、一部には地雷が仕掛けられていた。ドイツ軍の防御地帯の縦深は40キロメートルに達した。
イギリス第8軍に属するポーランド第2軍団の任務は、セニオ川の敵陣地を突破し、サンテルノ川に橋頭堡を確保することだった。ここが対独追撃作戦の足場となるはずであった。作戦期間中、ポーランド軍はイギリス部隊によって増強された。機械化された第43グルカ旅団、第7機甲旅団、そして架橋戦車や火炎放射器などを装備する第25装甲工兵旅団の一部である。
さらに、「シャーマン」戦車と「カンガルー」装甲兵員輸送車を備えた第14軽騎兵連隊の1個大隊や、装甲車を有する第27ランサーズ連27ランサーズ連隊もポーランド軍の指揮下に入った。加えてイギリス砲兵4個連隊が火力支援に当たり、地上部隊のみならずポーランド空軍も攻勢に積極的に参加した。

ボローニャの戦いの作戦図。
攻勢開始
第3カルパティア狙撃兵師団の作戦区域では、1945年4月9日午後1時30分、連合軍航空部隊による敵陣地への大規模爆撃をもって作戦が幕を開けた。ところが、爆撃機群の一つが指定地域を誤認し、爆弾が戦闘準備を進めていたカルパティア師団の頭上に落ちるという悲劇が起きた。ポーランド兵37名が死亡、199名が負傷した。それでも、ポーランド軍の攻撃は午後7時30分に開始された。
夜のうちに、カルパティア師団の兵士たちはドイツ第26装甲師団の強固な抵抗を打ち破り、セニオ川を渡河して両岸の堤防を確保した。彼らはそのままサンテルノ川方面への前進を続けた。ドイツ軍は自軍の砲兵と迫撃砲の支援を巧みに使いながら激しく抵抗したが、4月11日の夕方までにサンテルノ川東岸の堤防はポーランド軍の手に落ち、対岸にも橋頭堡が築かれた。
翌日、この橋頭堡をめぐって両軍の間で激烈な戦闘が繰り広げられた。ドイツ軍は第1カルパティア狙撃兵旅団の陣地に対し、戦車と装甲砲による猛反撃さえ仕掛けた。しかし、連合軍攻撃航空隊と砲兵の素早い応援により危機は回避され、ドイツ軍は撃退された。さらに自走橋の使用と浅瀬の発見により、戦車やその他の装備を対岸へ移送することが可能となり、西岸の堤防も占領された。
一方、第5クレシヴァ歩兵師団(KDP)が激しい敵火力の中で渡河を強行する一方、ボローニャへ通じる9号線沿いに前進する「ルド」支隊は、敵の砲兵と迫撃砲の火力を一身に引き受けていた。やがて戦闘は第2軍団の全攻撃正面で拡大した。ポーランド兵たちは足場を確保しようと果敢に戦い抜いた。ドイツ軍はすべての場所で川の橋を破壊しきれなかった。その一つは、ポーランドのコマンド部隊と第4機甲連隊の戦車によって奪取されたのである。
敵を追撃せよ
この消耗戦の末、ポーランド軍はついにドイツ軍を押し退け、敗残兵はイディーチェ川まで後退した。ガイアーナに達したポーランド第2軍団は、ボローニャ南方で米第5軍と交戦するドイツ軍部隊の側面に位置することになった。同時に、連合軍右翼に展開するイギリス第5軍団はアルジェンタ地域に到達した。この頃、アメリカ軍がドイツ軍の防御を突破し、ボローニャ付近で敵部隊を包囲する可能性が生まれた。事態を察知したドイツ軍司令部は、4月20日から21日にかけての夜に守備隊の撤退を命じた。
先頭のポーランド部隊はイディーチェ川に橋頭堡を確保し、逃げゆく敵を追撃する絶好の条件を作り上げた。まもなく、ポーランド正面の全区間で追撃を実施するよう命令が下された。「ルド」支隊所属の第3カルパティア狙撃兵旅団は、ボローニャ東端の占領を命じられた。これは容易な任務ではなかった。部隊が前進するはずの9号線はアメリカ軍砲兵の射界内にあり、第15軍集団司令部への調停が必要となるほどであった。
結局、ポーランド軍の2個中隊がサヴェナ川を渡り、ボローニャ東郊および北東郊に到達した。第9カルパティア狙撃兵大隊は9号線沿いに接近し、第8大隊は市北部の環状鉄道を目指して前進した。4月20日の夕方、「ルド」支隊長クレメンス・ルドニッキ将軍が旅団のもとに到着すると、ドイツ軍が撤退しつつあることを確認した。そこで将軍は、逃げゆく敵の背後に食い込む形で活発な行動を取り、市中心部へ突入するよう旅団に命じた。将軍はまた、アメリカ軍に先んじて都市を確保することも望んでいた。

ベイリー橋を使ってイディーチェ川を渡るポーランド第2軍団の兵士たち。
戦闘の結末
ボローニャに最初に入城したのは、第9カルパティア狙撃兵大隊の部隊であった。時は1945年4月21日午前6時。2時間後、アメリカ軍の戦車が市内に入り、その指揮官は市がすでに占領されていることに驚きを示したという。ポーランド兵たちはボローニャ市民の歓呼をもって迎えられ、心からもてなされた。イタリア戦線の戦史家ズビグニェフ・ヴァヴェルは、この瞬間の雰囲気を次のように記している。
市庁舎前には第9大隊の第3中隊と第4中隊が整然とした隊列を組んで立っていた。兵士たちの顔は笑みにあふれ、充血した目は喜びを放っていた。誰もが彼らを祝福した。そしておそらく誰もが、ボローニャから感謝を受けることになった彼らの運命を思うにつけ、クラクフでもチェシンでもノヴィ・ソンチでもないのか、と惜しんだに違いない。ポーランドの草原の花だけでも、ポーランドの子どもたちや娘たちの手から投げかけられたなら! だが、運命はそう定めていなかったのである。
12日間に及ぶ作戦の結果、ドイツ軍は約32,000名の死傷者を出し、約35,000名が捕虜となった。ポーランド第2軍団は約8,000名の敵兵を戦闘不能に追い込んだ。しかし、その代償も決して小さくなかった。ポーランド兵234名が戦死し、1,228名が負傷したのである。

ボローニャに入城するポーランド軍。地元住民が第5クレシヴァ歩兵師団の兵士たちを歓迎する。
これがアンダース将軍の兵士たちにとって最後の戦いとなった。4月22日、ポーランド軍団は第8軍の予備に編入された。翌日、第8軍司令官リチャード・マクリーリー将軍はポーランド兵たちに特別な祝賀命令を送り、その中でこう書き記した。「あなた方はこの偉大な勝利において、決定的な役割を果たした」。
それから1週間足らず後の1945年4月29日、カゼルタにおいてフォン・フィーティングホフ将軍の代表者が、イタリアにおけるドイツ軍全軍の無条件降伏文書に署名したのである。
参考文献
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