人民ポーランド建国の裏側──知られざる10の真実
ポーランドの共産主義者たちは、熱心なカトリック信者を演じていた。ソ連は奪えるものは何でも解体して持ち去った。そして一般のポーランド市民は、歴史から忘れ去られた1200件ものストライキを組織していたのである。本稿では10のポイントから、人民ポーランド建国の実像に迫る。
今回のTOP10は、当サイトで公開している記事に基づいている。取り上げるのは、戦後最初の数年間、すなわちいわゆる「人民ポーランド」が形づくられていった時代に関する記事だ。
10. 連合国はポーランドを食い物にしようとしていた
あと一歩で、ポーランドは東部領土を失い、代わりの補償を一切得られないところだった。理由は、「回復領」と呼ばれる地域はドイツ領に留まるべきだと考えるアメリカとイギリスの反対だった。ウィンストン・チャーチルに至っては、「ロシアに支配されたポーランド政府が、ドイツを犠牲にした巨大かつ有害な併合へと駆り立てられた」とまで述べている。
9. フリーメーソンは新政権の強化に大きく貢献していた
フリーメーソンは人民政権の強化に非常に積極的に関与した。メンバーの40%以上が国家行政の要職に就き、3人に1人は大学の教員となり、約10%が協同組合の最高幹部にまで昇り詰めた。
8. ポーランド人が共産主義に抗わなかったのは神話だった
人民ポーランドの初期、国全体を巨大なストライキの波が襲っていた。1946年だけで34万人の労働者が抗議行動を起こし、1948年までに全国で累計およそ1200件のストライキが発生している。
7. 政権初期の共産党員たちは「自分たちは共産主義者ではない」と主張していた
信頼を勝ち取るため、ベテランの党活動家たちは戦前のポーランド共産党(KPP)の伝統を公然と批判した。彼らは喜んで教会の礼拝にも参加した。これは、疑心暗鬼に陥った市民たちの支持を取り付けるための計算づくりの演出だったのだ。
6. 戦後まもなく、諜報機関は使えるものなら何でも利用した
共産主義政権の情報機関は、ポーランドに残留したドイツ人さえ惜しみなく起用した。時に彼らは驚くほど有用だった。その好例がアリス・クラフチックであり、彼女こそ「人民ポーランド最高のスパイ」と呼ぶにふさわしい人物だった。
5. 1944〜1946年、ソ連はポーランドを徹底的に略奪した
赤軍による戦赤軍による戦闘行為以外の損害まで加算すると、中部・東部ポーランドだけでも損失は現在の通貨価値で540億ドルに達するという。
4. 1950年の通貨切替で、国民の貯蓄の3分の2が消えた
ズウォティのデノミネーションを機に、共産党政権はポーランド人の貯蓄の3分の2を事実上奪った。原因は、それまでの貯蓄に適用された極端に不利な換算レートだ。さらに外貨関連の罪に対する刑罰も強化され、外貨を所持しているだけで懲役15年、売買すれば死刑が科されうるほどだった。
3. 第三帝国の降伏からわずか1ヶ月後、ポーランド・チェコスロバキア戦争が一触即発に
チェコ側もポーランド側も、クロジコ地方、ザオルジェ地方、ラチブシュを巡って武力衝突する構えだった。スターリンの介入がなければ、ポーランド軍はほぼ間違いなくチェコスロバキアへ進軍していただろう。
2. ユダヤ系はポーランド労働者党最高幹部の3分の1を占めた
1944年から1948年にかけて、ユダヤ系はポーランド労働者党の最高指導部の3分の1を占め、党の指導層全体では35%に達した。ただし、彼ら自身の出自への向き合い方は人によって大きく異なっていた点には留意が必要だ。
1. 1951年の国境調整は、数百億ドルの損失となった
ポーランドはソ連との間で国境調整を行い、数十億ドル規模の損失を被った。交換の対象となったのは、石炭資源が豊富なブク川の湾曲部(ブグの膝)だった。その引き換えに手に入れたのは、油井がすでに枯渇したビエシュチャディ山地の小片のみだったのである。
人民ポーランドの誕生とは、単なる体制の交代ではなく、欺瞞、略奪、そして市民の静かな抵抗が複雑に絡み合ったプロセスだったのだ。