歴史物語

中世の戦場はどれほど凄惨だったのか?――騎士の栄光と血みどろの現実

中世は総力戦の時代としてイメージされがちだ。全身甲冑の騎士たちが歌を口ずさみながら戦場へ赴き、大地は血で流れ、死体が累々と積まれる――そんな絵空事が頭に浮かぶ。しかし実際には、大規模な会戦は極めて稀であり、その姿も今日私たちが思い描くものとは大きく異なっていた。

戦闘回避こそが戦略だった

中世において戦争は特別な出来事だったが、それでも戦闘は頻繁に起こるものではなかった。むしろ当時の戦略の基本は「正面衝突の回避」にあり、襲撃を受ければ要塞の背後に籠城して応じるのが常だった。その結果、攻撃側は緩慢な進軍を余儀なくされ、防衛側は激しく抵抗する。多くの場合、それは消耗戦であり、交戦者たちは何よりも早い物質的利益を追求していた。

中世の戦場はどれほど凄惨だったのか?――騎士の栄光と血みどろの現実

中世の戦闘はしばしば凄惨な虐殺と化した。1302年のクールトレーの戦いもその一例である。

こうして軍隊の時間の大部分は、町や村の略奪、待ち伏せや急襲の実施、包囲戦に費やされた。会戦も皆無ではなかったが、中世の戦争とは主に敵の経済的基盤を掘り崩す行為だったのである。その典型例が、1068年から1069年にかけての征服王ウィリアムの遠征だ。十字軍も、ポーランド・リトアニアとドイツ騎士団の抗争も、百年戦争も同様であった。

沈黙する史料

では、勇敢な騎士たちが躊躇なく死地へ赴き、最後の一滴の血まで戦い抜くという現代的イメージは、どこまで真実なのだろうか。実は、中世の戦闘に関するステレオタイプには一粒の真実が含まれている。決着の段階に至ったとき、戦闘は極めて血生臭く無慈悲なものになるのが常だったからだ。

中世の戦場はどれほど凄惨だったのか?――騎士の栄光と血みどろの現実

中世の戦場には大量の死体が横たわっていた。

しかし、こうした戦闘を描写しようとすると、まず交戦勢力の規模を特定する段階で壁にぶつかる。年代記作者たちが伝える情報は、しばしば大幅に誇張されていた。敵の兵力を水増しすることで、自軍の勝利の重要性を強調したり、敗北の弁明をしたりするのが慣例だったのだ。

戦闘そのものの記述も正確とは言い難い。大まかな説明はおおよそ事実に対応しているかもしれないが、細部となると話が別だ。年代記作者の大多数は戦闘の詳細に関心がなかったか、そもそも知らなかった。両軍の損害に関するデータも、誇張されるか、逆に過小評価されることが多かった。

場合によっては、戦闘の実像は文字史料からではなく、地形、武器、当時の軍事戦術に関する研究から浮かび上がってくる。それらの成果が、謎めいた年代記の記述と組み合わさって初めて、戦闘の規模が見えてくるのである。

最良の例が、972年6月24日、ミェシュコ1世公の軍勢とラウジッツ辺境伯ホドーの部隊がチェディニャで激突した戦いだ。「史料の沈黙」から、歴史家たちはこの戦闘が極めて血生臭いものであったと結論づけている。公の軍の意図的な作戦により、辺境伯は最精鋭の騎士をことごとく失い、自身もかろうじて包囲を脱した。犠牲者の概数すら不明だが、相当なものであったに違いない。皇帝オットー1世自身が「この敗報に生きながら打ちひしがれた」と伝えられるほどだからだ。

血の中を足首まで浸かりながら……

しかし、野戦だけがすべてではない。中世の戦争は非常に多くの場合、包囲戦の形を取った。こうした作戦には莫大な費用がかかるため、要塞攻略にかかる時間は最小限に抑えようと努められた。さらに包囲された側が長く抵抗すればするほど、陥落時には恐ろしい報復が待っていた。

1099年、十字軍によるエルサレム包囲戦は1ヶ月以上続いた。勝者たちは血に酔い、指揮官の命令を無視して、2日間にわたり市の防衛者たちを虐殺した。

犠牲者数の確定は難しい。フランク系およびヘブライ語史料では3,000人から10,000人、ムスリム側の記録では70,000人に上るとされる。真相がどうであれ、「血の中を足首まで浸かりながら」進む兵士、ほぼ「死体で埋め尽くされた街全体」、防衛者の血が「流れとなってほとばしる」神殿といった描写は、今日なお読む者を圧倒する。

ただし、こうした恐ろしい戦争慣行の源流を文化的・宗教的な対立だけに求めるなら、それは誤りだ。同じ十字架の印のもとで戦い、しかも騎士道精神を奉じていた兵士たちでさえ、敵を等しく残酷に扱えたのだ。1410年7月15日、5万人を超える武装者がグルンヴァルトで激突した。神の名のための戦いといえども、ヤギェウォの軍がドイツ騎士団に対して血の風呂を用意するのを妨げはしなかった。しかも自軍の損害は相手の何分の一かにすぎなかった。

推定によれば、騎士団の軍は戦闘、輜重の防衛、撤退の際に最大8,000人の騎士、従士、武装従者を失った。これは開戦前の兵力の約半数にあたる。年代記作者はこう記している。「……街道は数マイルにわたり死体で覆われ、大地は血で粘りついた。瀕死の叫びとうめきが空気中に響いた」

中世の戦場はどれほど凄惨だったのか?――騎士の栄光と血みどろの現実

グルンヴァルトでドイツ騎士団は約8,000人の騎士、従士、武装従者を失った。

同じことは数ヶ月後のコロノヴォの戦いでも起きた。当初、この衝突は騎士道の掟とトーナメントの決闘のルールに従って進められ、戦士たちは二度、戦いを止めて休息し、捕虜と馬を交換し、互いに贈り物を送り合うことさえあった。ところがポーランド騎士がドイツ騎士団を圧倒した瞬間、戦闘の様相は根本的に変わった。敵の士気は崩れ、逃走が始まる。ポーランド騎士たちはこう述べている。

「……完全な勝利を収めた彼らは、敵を殺すか、捕らえるか、逃走を余儀なくさせた。敵は退却し、ポーランド軍がさらに激しく攻め立てると、逃げ出した。……勝者たちは、追跡して討ち取る力の続く限り、逃げる者を追い立てた」

この戦いでも正確な損害データはないが、騎士団側は約800人が戦死し、300人が捕虜になったと推定されている。

騎士道精神? それは平民には無縁のもの!

騎士道精神の担い手たちにとっては、敵を殺すより捕らえて身代金を得る方が利益になるため、彼らの戦闘は比較的抑制されていた。ところが、ヨーロッパの職業軍人にとって最も恐るべき敵となったのは、彼らが軽蔑し見下していた平民たちだった。

中世の戦場はどれほど凄惨だったのか?――騎士の栄光と血みどろの現実

14世紀に描かれたクールトレーの戦い。

1302年7月11日、フランドルのクールトレー近郊で、都市の織物職人からなる反乱軍が、フィリップ4世(美男王)麾下のフランス騎士の精鋭を打ち破り、虐殺したのだ。フランドル歩兵の手にある槍と棍棒(グーデンダッハ)は恐るべき武器となり、突撃する王軍の騎士たちは次々と屠られた。織物職人側の損害は約200人、フランス側は1,500人超と推定される。反乱軍の最も壮観な戦利品は、騎士たちの脚から引きちぎられた500足の金の拍車だった。

先に触れた百年戦争にも血生臭い衝突がなかったわけではない。1346年8月26日のクレシーの戦いがその一例だ。序盤では、イングランドの弓兵とフランスに雇われたジェノヴァのクロスボウ兵との間で特異な対決が繰り広げられた。傭兵たちにとって不幸なことに、その結末は悲惨だった。年代記作者はこう報じている。

「弓兵たちは、雪が降っているかと思われるほどの力と速さで矢を放ち始めた。ジェノヴァ兵たちは腕や頭に矢が突き刺さり、鎧をも貫くのを感じると、振り返って逃げ出した」

射殺され壊滅したクロスボウ兵たちは、突進してくるフランス騎士の馬蹄の下に倒れた。フランス王フィリップ6世自身が「この悪党どもを殺せ! 我々の邪魔をするな!」と叫んで兵を鼓舞したが、無駄だった。フランス軍の度重なる突撃は、平民出身の弓兵とエドワード3世の騎士たちによってことごとく食い止められた。

記録によれば「鋭い矢が人と馬を貫いた。多くの者が倒れ、群衆の中で立ち上がることさえできなかった」。戦場には10,000〜20,000人のフランス人とジェノヴァ人の死体が散乱し、うち騎士だけで1,500人に上った。一方、イングランド王が失ったのは最大500人だった。

殲滅を目的とした戦い

敵対する国家間の激しい戦闘には驚きも少ないが、同胞同士の殺し合いにおける獣性は理解しがたい。残念ながら歴史は、外国人よりも自国民の方がさらに残酷に扱われた事例を数多く知っている。薔薇戦争中の1461年3月29日、タウトンの戦いがまさにそうだった。双方が捕虜を取らないことを決めたことで、戦闘は血みどろの惨劇と化した。

イングランド王位を懸けたこの戦いで約28,000人が死亡した。これは参戦した全兵力の半分以上にあたる。沼地、丘、川に囲まれた戦場は、弓矢と火器の絶え間ない砲火の下に置かれた。最悪の損害を被ったのはランカスター派で、特に慌ただしい撤退の際だった。

年代記は「彼らはより速く逃げるために、兜、鎧、盾を投げ捨てた」と伝える。しかし防具を失った彼らは、追撃するヨーク派の打撃に対してかえって無防備になっただけだった。撤退する兵たちが渡らねばならない川には、倒れた死者の死体で橋ができた。捕らえられた囚人は耳と鼻を切り落とされ、身体を損傷させられた。これは純然たる残虐性の表れだった。なぜなら、彼らはいずれ処刑される運命だったからだ。

1415年のアジャンクールの戦いで捕虜となった者たちも、同様に残酷な運命を辿り、斬首刑を宣告された。イングランドの騎士たちはこうした恥辱的で不利益な行為を拒んだが、平民出身の弓兵たちは何の躊躇も示さなかった。1191年にアッコで捕虜となったサラセン人たちの場合も同じだった。サラディンが休戦協定の条件を破ったことに対し、イングランド王リチャード獅子心王は2,700人の捕虜の殺害を命じた。史料によれば、兵士たちは長い包囲戦で失った同志の死への復讐として、この虐殺に耽溺したという。

中世の戦場はどれほど凄惨だったのか?――騎士の栄光と血みどろの現実

中世の戦闘では捕虜の殺害も珍しくなかった。アジャンクールの戦いもその一例である。

ご覧のように、中世の戦闘はその大部分が殲滅戦だった。加えて忘れてはならないのは、当時は医療支援が事実上存在しなかったことだ。小さな傷や骨折ですら死につながることが度々あり、これが犠牲者数をさらに押し上げ、戦場をいっそう血生臭いものにしていた。

相手が神を信じようとアッラーを信じようと、関係なかった。社会的地位でさえ戦場での死から守ってはくれなかった。時に高い身分は、かえって死刑宣告に変わることさえあった。捕虜からの身代金への期待は、戦闘の狂乱の中でしばしば消え去った。ある騎士が生き延びられるかどうかは、単純に状況、決断力、そして敵対者の機転にかかっていた。そして後者に関しては、中世の祖先たちに不足していることは決してなかったのである。