フサリア(ポーランド軽騎兵)は200年にわたりポーランド共和国を守り抜きました。その恐るべき戦闘力こそが、ポーランド史上最大の勝利を決定づけたのです。敵は彼らを恐れ、同盟国はその姿を称賛しました。ときには十数倍もの数の敵と対峙することさえあったのです。さて、あなたは次のことをご存じでしたか?
ここで紹介する豆知識は、いずれもラドスワフ・シコラ(Radosław Sikora)氏の最新刊『フサリア――ポーランド武勇の誇り(Husaria. The pride of Polish arms)』から引用したものです。
砲弾すら寄せ付けなかった鎧

実際に砲弾を受けても、鎧がフサリアの命を守ったケースがありました。写真はワルシャワのポーランド陸軍博物館所蔵のフサリアの鎧です。
たとえば1633年8月30日のスモレンスクの戦い、そして1660年9月26日のリュバル〜チュドヌー間の戦闘では、砲弾を直撃されながらも、鎧のおかげで命拾いしたフサリアがいました。
一撃で6人を貫いた長槍

フサリアの長槍は6メートルを超えることもありました。写真はクラクフ国立博物館所蔵の実物の長槍で、その長さはほぼ5メートルに及びます。
最長のものは6.2メートルに達しました。1660年6月28日のポウォンカの戦いでは、たった一撃の突きでモスクワ歩兵6人を一度に貫いたという記録が残っています。
最多動員はホチムの戦い

ホチムでは約8000人のフサリアが戦いました。
歴史上最多のフサリアが動員されたのは、1621年のホチムの戦いです。53個中隊で定員8520人を数えましたが、欠員分を差し引くと、実数は8000人弱だったと考えられています。
隊列には怪力自慢もいた

フサリアの中には、長さ約6メートルもある長槍を3本も片手で持てるほどの怪力自慢がいました。
10キュビット(約6メートル)の長槍を3本同時に片手で持ち上げる力持ちもいました。また、後にヴワディスワフ皇子(のちのヴワディスワフ4世)の教育係となるジグムント・カザノフスキは、先のとがった杭の上に立ち、体を傷つけることなくその場で数回回転してみせたという芸当を披露したこともあります。
スウェーデン王も憧れた騎兵

グスタフ・アドルフは、フサリアのような騎兵を夢見ていました。図版はユリウシュ・コッサクの水彩画「フサリアの旗手」。
人類史上屈指の名将と讃えられるスウェーデン王グスタフ2世アドルフは、フサリアについてこう語ったと言われています。「ああ、私もあのような騎兵を持っていたら、今年中にコンスタンティノープルへ陣取っていたものを」
彼をそこまで感嘆させたのは、戦意に燃えたフサリアが、断崖のような急斜面を馬で駆け下りていく光景でした。
これは1626年10月1日のグニェフの戦いでの出来事です。スウェーデン歩兵はフサリアの突撃から逃れるため、丘の上の堡塁を捨てて麓へ降り、急な堤防ならポーランド騎兵は追いつけないと考えていました。しかしフサリアはそれを意に介さず、坂を駆け下りて攻撃を仕掛けたのです。
愛馬まで染めていた

いわゆるストックホルム・ロールに描かれた、染色されたフサリアの馬。
フサリアはときに愛馬を染色していました。それはストックホルム・ロールと呼ばれる絵巻にも見て取れます。馬を赤く染める際には、ミョウバンを使ったブラジル材由来の赤色染料が用いられました。馬の染色は式典の場だけでなく、実戦の最中に行われることさえあったのです。
十数倍の敵にも物怖じしなかった

ホチムでは、スルタン・オスマン2世率いる約17倍の大軍を相手に堂々と渡り合いました。
フサリアは十数倍もの兵力を持つ敵さえ打ち破りました。たとえば1621年9月7日には、わずか600人前後のフサリアが、ホチム付近で約1万人のオスマン軍を戦場から駆逐しています。さらに1660年9月26日には、約140人のフサリアが、クティシュチ近郊で1700人以上のコサック・モスクワ連合軍を打ち破りました。
一般動員からも編成されていた

フサリアは民衆の総動員からも編成されました。図版はユリウシュ・コッサクによる、ウィーンでトルコ軍旗をめぐる戦いを描いた素描。
フサリアは常備軍や王室直属・貴族私設の部隊だけではありません。一般貴族の総動員(ポスポリテ・ルシェニエ)が召集される際には、その参加者たちが軽騎兵として、あるいはフサリア式の装備を整えて参戦することもありました。たとえば1665年のヴィエルコポルスカの総動員では、全軍3900騎のうち1400騎がフサリア装備でした。
葬儀では長槍を折った

フサリアの戦友の葬儀では、棺台に向けて長槍が折られました。
仲間の葬儀では、長槍を折る儀礼が執り行われました。騎士が教会へ馬で駆け込み、棺台の前に槍を突き立ててへし折り、そのまま故人を悼むかのように馬から地面へと身を投げ出したのです。
フサリアは他国にも存在した

1678年、モスクワを訪れたポーランド使節団を出迎えるモスクワの有翼騎兵。図版とキャプションは『フサリア――ポーランド武勇の誇り』より。
フサリアはポーランド・リトアニア共和国だけのものではありませんでした。確かにこの国で最高の栄光を勝ち取り、独自の様式を確立し、他のどの国よりも長く戦い続けましたが、そもそもの起源はセルビアとハンガリーにあります。ハンガリーの影響を受けて発展した側面もあります。モスクワも数十年にわたってフサリアを保有していました(ただし、その戦果について史料は沈黙しています)。世界最高のフサリアを有していたことは誇れますが、「ポーランドとリトアニア以外には存在しなかった」と言うのは正しくありません。
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ポーランド史上最強の騎兵についてさらに詳しく知りたい方は、ラドスワフ・シコラ氏の新刊『フサリア――ポーランド武勇の誇り』をぜひご覧ください。