オランダの科学情報サイトKennislinkでは、隔週でゲストコラムを掲載している。執筆を担当するのは毎回異なる研究者で、社会や日常の中で起こる出来事の背後にある学問について、それぞれの専門分野の視点から論じるのが特徴だ。今回は、歴史家ヨウケ・トゥルパイン(Jouke Turpijn)氏による、英国暴動に関する寄稿を紹介する。
メディアも警察も政治家も、なぜ予測できなかったのか
今年夏、ロンドンをはじめとする英国各都市で勃発した暴動は、現場を取材したメディア、対応に追われた警察や政治家、そしてテレビやインターネットで事態を見守った視聴者にとって、まさに不意打ちとなった。しかしごく最近の過去――主に1980年代――がきちんと研究されていれば、この混乱をもっと早く読み解き、どう対処すべきかを判断できたはずなのである。
1970年代半ば、公共精神は終わりを迎えた
第二次世界大戦後の最初の数十年間に続いた経済成長、民主的改革、社会的実験は、1970年代半ばに頓挫した。政治家も市民も公共の暮らしから身を引き始めたのだ。国家は緊縮財政を余儀なくされ、あらゆる責任を外部へ移管するとともに、市民のことを次第に「厄介な顧客」として扱うようになっていった。街頭では、抽象的な理想や他人の苦しみのために立ち上がる人は減り、人々は主に自分自身の窮状を大声で訴えるようになったのである。
1980年代、果てしなく続いた暴動の記録
英国では、こうした不満が1980年代、持たざる者(have-nots)と権威との間にさまざまな騒乱を引き起こした。今のイギリス人はこうした衝突に慣れているはずだと思うほど、そのリストは長い。ブリストルのセントポール(1980年)、ロンドンのブリクストン(1981年、1985年)、リーズのチャプルタウン(1981年)、リヴァプールのトクステス(1981年)、バーミンガムのハンズワース(1981年、1985年、1991年)といった貧困地区での暴動。北アイルランドにおける内戦寸前の状態。フーリガンによる凄惨な騒乱。そして1984〜85年には、ストライキ中の炭鉱労働者と警察との大規模な衝突が起こった。さらにこれらの出来事は、当時を描いた多様な文化表現を通じて、国民的記憶としても定着している。
なぜこの知識が活かされないのか――答えは政治にある
1980年代、不満を抱えた人々はダウニング街10番地で扉を閉ざされた。例えばマーガレット・サッチャー首相は、1981年のブリクストン暴動を受けて「何も、何ひとつ、起こったことを正当化するものはない」と述べた。保守派の「鉄の女」は、その後のあらゆる衝突のたびに、実質的に同じ姿勢を繰り返したのである。結果は裏目に出た。その後に続いた数多くの暴動、そして――今日私たちが知るように――現在まで尾を引いている不満の感情が、それを雄弁に物語っている。
キャメロン首相への期待
デーヴィッド・キャメロン首相には、1980年代の先輩政治家よりも、こうした声に真摯に耳を傾けてほしい。注目を集めようとする略奪者たちではなく、「普通の」イギリス市民の声にである。彼らは日々、持たざる者たちの間に横たわる緊張を経験し、厳しい現実世界との摩擦を体感しているのだ。
また、ついでに申し上げれば、キャメロン氏には都市の混乱に関する本格的な歴史的調査に、エネルギーと資金を投入してもらいたい。過去の知見が現在を保証するわけではないし、80年代の騒乱との間には大きな相違もある。それでも、ほぼすべての衝突において、社会的格差やさまざまな民族集団間の緊張が主因として指摘されてきたにもかかわらず、それらが決して解決されてこなかったという事実からは、確かに学ぶべきことがある。
皮肉な現実
現時点では、それは無駄な願いのように思われる。キャメロン氏はサッチャー氏をなぞるように、暴動を直ちに「単純明快な犯罪行為」と断罪し、厳罰処分の方針を打ち出した。これはさらなる混乱を招く処方箋にほかならない。人が自らの生活環境を破壊するまでに至る場所には、「単純明快」なものなど何一つ存在しないのだから。