ドデカニサ諸島(「十二島」を意味するドデカニサの名を持つが、実際には14の島々からなる)は、古代以来、ヘレニズムの運命とともに歩んできました。しかしその近代ギリシャ国家への正式な編入は、1947年から1948年になってようやく実現したのです。

支配と抵抗の歴史
地理的な位置ゆえに、これらの島々はペルシャ人、サラセン人(アラブ人)、ヴェネツィア人、ジェノヴァ人、十字軍、そしてトルコ人(セルジューク朝とオスマン朝)による破壊的な襲撃に度々見舞われてきました。1309年には聖ヨハネ騎士団(ホスピタル騎士団)の支配下に入り、1522年にオスマン・トルコによって占領されるまで、その統治が続きました。
1821年にギリシャ独立戦争が勃発すると、ドデカニサの住民も蜂起しました。しかし1830年の取り決めにより、島々はサモス島とともにオスマン帝国へ返還され、代わりにエヴィア島が自由なギリシャ国家に編入されることとなったのです。
イタリア占領と戦時下の激動
1912年、イタリアがドデカニサ諸島を占領すると、島民の間には「まもなく国民共同体に加わるだろう」という希望が再び芽生えました。実際、セーヴル条約(1920年8月10日)では、ロードス島が当面イタリア管理下に置かれることを除き、ドデカニサ諸島はギリシャへ割譲されるはずでした。ところが、小アジア遠征におけるギリシャの敗北がイタリアに撤回の口実を与え、ムッソリーニの台頭とともに、イタリアはむしろ諸島支配の強化へと動いたのです。
第二次世界大戦中の1943年にイタリアが降伏すると、諸島の支配権はナチス・ドイツの手に移り、さらに1945年5月のドイツ無条件降伏後は、イギリスがその座につきました。
パリ平和会議をめぐる外交
これはドデカニサ諸島のギリシャ編入にとって絶好の機会であり、ギリシャ外交が決して逃してはならないものでした。ギリシャ国民にとって諸島の回収は悲願であり、ドイツ軍を諸島から駆逐するために、すでに多くのギリシャ人の血が流されていたからです。この問題は、第二次世界大戦戦勝国によるパリ平和会議で最終的に決着されることになりました。
ギリシャはコンスタンティノス・ツァルダリス首相を通じて、北エピロスの獲得、ドデカニサ諸島の回収、ギリシャ・ブルガリア国境の画定を国家的な要求として交渉のテーブルに載せると発表し、あわせてイギリスに対してキプロス問題を提起する意向も示しました。この4つの国家的要求のうち、困難も複雑な紛糾もなく実現したのは、ドデカニサ問題のみだったのです。
ソ連の思わぬ方針転換
周知のとおり、第二次世界大戦中、スターリンとチャーチルは、トルコを連合国側で参戦させること、少なくとも厳正な中立を保たせることを目的として、エーゲ海の一部の島々を提供してトルコを懐柔しようと試みていました。さらにスターリンは、ドデカニサ問題を、ソ連が委任統治を求めていたトリポリ(現在のリビア)の問題と結びつけていたのです。
しかし思わぬ政策転換により、ソ連はドデカニサ諸島のギリシャへの割譲に同意します。1946年6月27日、パリ平和会議の準備を行っていた外相会議の場で、外相ヴャチェスラフ・スクリアビン——一般にモロトフとして知られる人物——がこの同意を表明したのです。その唯一の条件は、諸島の非武装化でした。こうして平和会議が開催される前に、ドデカニサ問題はギリシャにとって有利な展開を迎えることとなりました。
内戦下の歓喜と外交の限界
ドデカニサ諸島のギリシャへの割譲の知らせは、内戦の渦中にあった同国においても、大きな熱狂をもって迎えられました。パリ平和会議は1946年7月29日から10月11日まで開催され、ギリシャ側は北エピロス問題やギリシャ・ブルガリア国境の画定についても議題に上げました。しかし、米国が同盟国であるソ連や、その衛星国であるアルバニアやブルガリアとの関係を慮って積極的な支持を惜しんだため、これらは実を結びませんでした。また、トルコがカステロリゾ島とシミ島への権利を主張する試みも、徒労に終わっています。
1947年の講和条約とその波紋
1947年2月10日、パリにおいて対イタリア講和条約が調印されました。この条約によりドデカニサ諸島はギリシャに帰属することになり、イタリアはギリシャに対して1億500万ドルの賠償金の支払いを義務づけられました。ソ連側の強い主張により、条約には諸島を非武装のままとする規定が盛り込まれました。この条項は、1974年以降、トルコによって一方的に持ち出されることになります。さらに、1947年のギリシャ・イタリア間条約の文言に関するアンカラの解釈は、1932年のイタリア・トルコ間協定と組み合わさって、1996年のイミア(カルダック)危機後にトルコが提起したいわゆる「グレーゾーン」問題の発生源ともなったのです。
引き渡しから正式編入へ
1947年3月31日、イギリス当局からギリシャへのドデカニサ諸島の引き渡し式典が、祝賀ムードの中でロードス島にて執り行われました。初代ドデカニサ諸島軍政長官にはペリクリス・イオアニディス海軍中将が就任し、政治顧問には、のちにギリシャ共和国大統領となる学者にして法学者のミハイル・スタシノプウロスがあたりました。
そして1948年3月7日、ドデカニサ諸島をギリシャ国家に正式に編入する式典が挙行されたのです。1955年にはドデカニサはロードス島を州都とする一つの県(ノモス)となり、今日までギリシャ南東部の要として輝き続けています。