歴史物語

ニコン・アルクデアス――アナーキストが「人間ならぬ思想」と讃えたELASの伝説的指導者

2005年9月4日、ギリシャ警察(EL.AS.)の伝説的な指導者、ニコン・アルクデアスがこの世を去った。77歳だった。市民から絶大な人気を博し、対立するはずのアナーキストたちからすら「彼は人間ではなく思想だ」と称えられた、ギリシャ警察史上類を見ない存在の生涯を振り返る。

ラコニアの大地から警察学校へ――生い立ちと教育

ニコン・アルクデアスは1928年11月26日、ペロポネソス半島ラコニア地方のポリアナ(現メッシニア県アギオス・ニコス)に、マニ半島出身の家系に生まれた。少年期はラコニアのアレオポリスで学び、その後、都市警察将校学校およびパンテイオン政治科学学校(現パンテイオン大学)を卒業している。

常に最前線にあった警察キャリア

アルクデアスは都市警察において、一貫して実戦部門でキャリアを積んだ。アテネ第1警察署、ピレウス第2警察署、当時のアテネ警察局警ら課などに勤務し、のちには第3警察分局長も務めている。「机の上ではなく街に立つ警官」であり続けたことが、後の彼の独特な存在感につながっていく。

PASOK政権の登場と「アティカルキス」の誕生

アンドレアス・パパンドレウの熱心な支持者でもあったアルクデアスは、1981年に全ギリシャ社会主義運動(PASOK)が政権に就くと、MAT(秩序回復部隊)とMEA(特別任務部隊)を傘下に持つアッティカ警察局長に就任した。さらに1984年、憲兵隊と都市警察が統合されて現在のギリシャ警察が発足すると、アッティカ警察総監に任命される。当時の報道機関は彼を「アティカルキス(アッティカの長)」と呼び、この愛称はやがて、この職位の保持者を指す通称として定着することになった。

ELASの頂点へ、そして辞任

1986年12月、アルクデアスはギリシャ警察(EL.AS.)の最高責任者に就任する。就任の際、当時の公安大臣アントニス・ドロソギャンニスは「新しい長官の紹介は不要だろう。彼はすべてのギリシャ人に知られ、愛されているのだから」と語ったという。しかし1988年4月、彼は自らその座を退いた。

警察の制服を脱いでから

警察退官後、アルクデアスはPASOK中央委員会の委員に選出され、1989〜1990年に行われた選挙ではアテネ選区から国会議員候補として立ったものの、わずかな票差で落選している。その後はイオニア銀行の警備責任者を務め、一時期はカログレザのオリンピックスタジアムの総支配人にも就いた。

1994年にはテオドロス・パンガロスの派閥から、1998年にはマリア・ダマナキの派閥から、それぞれアテネ市議会議員に選出された。晩年はマニ出身者によるポリアニテス協会の会長や、PASOKパライオ・ファリロ支部の幹部を務め、マニ地方の多彩な文化活動にも力を注いだ。

「人間ではなく、思想である」――異例の人気の秘密

ウィキペディアの記述によれば、アルクデアスはポスト軍事政権期(メタポリテフシ)における最も知名度の高い警察官だった。作戦本部にとどまらず、自ら街頭に降りて現場を直接指揮するという前例のない手法は市民の心をつかみ、それまでの警察官が持ち得なかったレベルの知名度と人気を彼にもたらした。

象徴的なのは、アテネ・エクサルヒア地区のアナーキストたちが掲げたスローガンだ。「変革はアルクデアスなしにはあり得ない。彼は人間ではなく、思想である」。秩序の番人であるはずの警察官が、反体制側からこう讃えられた例は、他に見当たらない。

光と影――批判への反論

もちろん、その評価は一様ではなかった。批判者たちは、特にエクサルヒアで展開されたいわゆる「美徳作戦」における警察の暴力や過剰な冷酷さを彼に帰した。これに対しアルクデアスは断固として否定し、「当時の状況を考えれば、自分の警察活動はむしろ抑制的だったはずだ」と主張。また、機動隊(MAT)を投入する前には必ず交渉による解決を試みていたとも強調している。

その死

ニコン・アルクデアスは2005年9月4日、77歳でこの世を去った。街に立つ警官として市民と共にあった彼の姿は、今なおギリシャ社会の中で語り継がれている。