歴史物語

ボストン虐殺後のトーマス・プレストン大尉はどうなった?無罪判決から晩年まで

1770年3月5日に起きた「ボストン虐殺」では、イギリス兵の発砲により市民5人が死亡しました。現場の指揮官だったトーマス・プレストン大尉は殺人罪で裁判にかけられますが、その後の人生はどのようなものだったのでしょうか。本記事では、裁判の経緯から無罪判決後の波紋、そして故国での晩年までを詳しく解説します。

ボストン虐殺とプレストン大尉の逮捕

ボストン虐>ボストン虐殺は、駐留イギリス兵とボストン市民との対立が頂点に達した事件です。当時の植民地では、印紙法やタウンゼント諸法をめぐる反英感情が高まっており、3月5日の夜、税関前で群衆と兵士が衝突しました。

第29歩兵連隊の哨戒を指揮していたプレストン大尉は、部下の兵士たちに発砲を命じた疑いで逮捕され、殺人罪で裁かれることになりました。ただし、「発砲命令を実際に出したのか」という点については、目撃者の証言が食い違い、当時から最大の争点となっていました。

ジョン・アダムズの弁護と無罪判決

注目すべきは、後にアメリカ合衆国第2代大統領となるジョン・アダムズが、弁護人としてプレストン大尉のために立ち上がったことです。アダムズは「事実に基づく公正な裁判」を信条とし、自身の評判や人気を顧みずにこの依頼を引き受けました。

1770年10月に行われた裁判の結果、陪審員はプレストン大尉に対して無罪の評決を下します。発砲命令を裏付ける証拠があるとされた一方で、群衆側の挑発行為や現場の混乱といった状況も考慮され、大尉個人に命令責任や殺意を認めるには至らなかったのです。

無罪判決が引き起こしたボストンの激怒

しかし、この無罪判決はボストンの市民に強い怒りをもたらしました。犠牲者が出たにもかかわらず責任者が罰せられないという結果は、反英感情をさらに煽ることになります。この事件と裁判は、やがてアメリカ独立戦争へと向かう世論の重要な転換点の一つとされています。

なお、別途裁判にかけられた兵士たちのうち6人は無罪となりましたが、2人は過失致死罪で有罪となり、親指への焼き印(ブランディング)という刑を受けました。

故国イングランドへ帰還し、貧困の中で死去

無罪となったものの、敵意に包まれたボストンに残ることはもはや安全ではありませんでした。プレストン大尉は同地を去り、最終的にイギリスへ帰国します。しかし帰国後の彼は栄光をつかむどころか、困窮した生活を送ることになりました。1791年、プレストン大尉は貧しいままこの世を去ったと伝えられています。

歴史の表舞台からは姿を消したものの、彼の裁判は「法の支配」と「公正な裁判」の重要性を示す例として、今日でも語り継がれています。