1770年3月5日、マサチューセッツ州ボストンで、イギリス兵がアメリカ植民地人の群衆に発砲する「ボストン虐殺事件」が発生しました。この事件で5人の植民地人が死亡し、数名が負傷しました。事件は、アメリカ植民地とイギリス本国の関係における重大な転換点となり、やがてアメリカ独立戦争の発火点の一つとなったのです。
それでは、事件の後には実際に何が起こったのでしょうか。ここでは、事件後の主な出来事を時系列でご紹介します。
ボストン虐殺事件後の年表
1770年3月5日|事件発生
ボストン虐殺事件が発生。5人の植民地人が死亡し、数名が負傷しました。
1770年3月6日|兵士の逮捕
事件に関与したイギリス兵たちが逮捕されました。
1770年3月7日|町民集会の開催
ボストンで町民集会が開かれ、事件への対応が議論されました。集会を主導したのは、イギリス支配への批判で知られたサミュエル・アダムズです。
1770年3月8日|総督による布告と撤退命令
マサチューセッツ植民地のイギリス人総督トマス・ハッチンスンは、事件を非難する布告を発するとともに、駐留部隊にボストン市内からの撤退を命じました。撤退先は、ボストン港内の島にある要塞キャッスル・ウィリアムです。
1770年3月9日|イギリス軍の撤収
イギリス軍部隊がボストン市街から撤退しました。これにより、緊張状態にあった駐留軍と市民との直接対立はひとまず回避されることになりました。
1770年3月10日|犠牲者の合同葬儀
植民地の人々は犠牲者5人の葬儀を挙行しました。数千人が参列したこの葬儀は、アメリカ人の怒りと悲しみを示す大規模な示威行事となり、反英世論を一層高める結果となりました。
その後|裁判の実施と結末
事件に関与したイギリス兵たちはボストンで裁判にかけられました。法廷では、のちに第2代アメリカ合衆国大統領となる法律家ジョン・アダムズが彼らの弁護を担当しました。これは、「法の支配に基づく公正な裁判」を貫くことが植民地側の正当性を証明すると考えたためです。その結果、兵士の大多数は無罪となり、2人のみが過失致死罪で有罪となり、親指に烙印を押される軽微な刑を受けました。この公正な裁定は、植民地側が感情ではなく法と理性によって動いていることを内外に示すことになりました。
1771年以降|記念日の追悼行事
翌1771年には、事件の記念日である3月5日に追悼演説が行われるようになりました。この追悼行事は毎年続けられ、犠牲者を偲ぶとともに、自由と独立の重要性を再確認する場となりました。
ボストン虐殺事件の歴史的意義
ボストン虐殺事件は、アメリカ史における極めて重要な出来事です。ポール・リビアによる扇情的な版画がプロパガンダとして各地に広まり、反英感情は植民地全土へと波及しました。事件は、アメリカ植民地とイギリスの関係を決定的に悪化させ、1775年のレキシントン・コンコードの戦闘、そして1776年の独立宣言へとつながる流れを作り出しました。
また、事件後の追悼行事の伝統は今日にも受け継がれており、ボストンでは現在も再現劇や記念式典が催されています。ボストン虐殺事件は、単なる悲劇にとどまらず、自由と法の支配という理念を象徴する出来事として、アメリカの歴史に深く刻まれているのです。