桓武天皇の二大事業は長岡京・平安京への移転と東北地方の定住である。
今回は東北地方に焦点を当てます。
東北地方の歴史
まず、当時の東北地方の状況を見てみましょう。
東北地方は、弥生時代に入ってからも続縄文時代と呼ばれる時代が続き、基本的にはヤマト政権や日本の足跡とは異なる文化を受け継いでいます。
大化の改新が行われたとき、東北(=蝦夷の地)に独国という国が建国されましたが、それは名ばかりで東北のほとんどは無所属のままでした。
この頃から城柵と呼ばれる防御施設を建設していきます。
東北征服
いよいよ本格的に東北平定を試みたのは斉明天皇の675年からです。この頃、中国大陸では隋と唐の勢力による統一国家が成立し、朝鮮半島との関係も微妙になった。
阿倍比羅夫は国を安定させるために東北に赴き、蝦夷や蝦夷に敵対する勢力と飴と鞭で戦った?帰属させることができました。
しかし、その後の展開には問題もある。
東北は他の地域に比べ冷害を受けやすい場所です。そのため、稲作が導入されてからも狩猟採集社会が続いたのです。それを栽培したらどうなるでしょうか?飢餓が起こりやすい状況になると思います(ただし、奈良時代は温暖化に突入した時代でしたので、江戸時代ほど飢餓は起こりませんでした)。
東北の飢餓の歴史年表
713-800の部分に関連しますが、凶作、凶作、飢餓が何度かあったことが分かります。平安時代以降飢餓が減少したのは、本格的な中世の温暖期と重なったためと考えられている。
奈良時代に僧侶が増えた理由と鑑真が来日した理由を調べたところ、735年からの天然痘の気温が流行の原因の一つだったと書きました。このあたりから温暖化が始まりますが、まだ安定していません。
反逆する蝦夷の反乱
反乱のもう一つの原因は引揚した蝦夷を捕虜として関東以西の各地に移住させ、 養殖していたことです。 。 .. この囚人に対するひどい扱いが反乱の始まりだったと考えられています。
780年、捕虜や飢餓で一度は帰還したはずの大規模蝦夷氏族・惟治安座麻呂が勃発し、かつては東北地方の軍事拠点でもある多賀城を通過した。反乱に発展してしまうのです。
この状態が30年以上も続いたため、桓武天皇は紀小佐美を征東使として大軍を派遣するが敗北する。その後は坂上田村麻呂です。 将軍となって胆沢城を築き、蝦夷の中心人物アテルイを送還する。
※追記(2015年10月30日)
伊治麻呂の乱自体は1年で終わったが、それ以前の東北地方は荒れ、770年頃から38年戦争と呼ばれる状態が続いていた。
最終的には日本海側の米代川流域、北は北上川上流の志波城築城まで支配が及んだ。そこまでは良かったのですが、平安京との二大事業の遂行は財政的に困難となり、二大事業は中止とさせていただきます。
紆余曲折はあったが、その結果、従来よりも広範囲を統治できるようになったのは桓武天皇の功績であった。
※最初に書いた文章が読みにくいため、別記事に移動しました。