アジアの歴史

古墳が造られるようになった理由――鉄の流通と首長の権威から読み解く

3世紀後半から6世紀後半にかけて続いた古墳時代は、文字を持たない文明としては日本史上最も繁栄した時代だったと言えるかもしれません。縄文・弥生時代に育まれた文化が花開いた文化的到達点であると同時に、後の日本という国家の形成につながった重要な転換期でもありました。

今回は、弥生時代中期以降の歴史をたどりながら、古墳(墳丘墓)がどのような背景のもとで生まれたのかを考えていきます。

墳丘墓誕生までの流れ

まず、古墳時代へとつながっていく出来事を確認しておきましょう。

日本列島で起きていたこと

紀元前2世紀~前1世紀頃

気温がピークを迎えた後に低下し始めます。弥生時代は温暖期から寒冷期への移行期にあたり、この寒冷化の傾向は古墳時代(6世紀頃)まで続きました。

紀元前1世紀~紀元1世紀頃

  1. 西日本を中心に洪水が多発 ⇒ 気候変動により農作物の収穫量が不安定化
  2. 鉄器が広範囲に普及
  3. 高地性集落の出現

気候変動と文明の関係については、安田喜憲『気候と文明の盛衰』(朝倉書店、1990年)などの研究でも、弥生時代の気候が決して安定していなかったことが示されています。

朝鮮半島・中国大陸で起きていたこと

紀元前206年(紀元前3世紀末)

大陸では秦(紀元前221年~前206年)が滅亡し、劉邦(高祖)によって漢が成立します。

紀元前195年(紀元前2世紀前半)

朝鮮半島では、燕出身の衛満が衛氏朝鮮を建国しました。

紀元前108年

衛氏朝鮮は漢によって滅ぼされ、その故地には楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡(いわゆる漢四郡)が置かれ、漢の領土となりました。

もちろん紀元前3世紀以前にも中国や朝鮮半島からの渡来人はいましたが、隣国でこれほど短期間に大きな政変が相次げば、一部の人々が日本列島へ逃れてきたとしても不思議ではありません。

その少し前、紀元前219年には徐福が始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて多くの技術者を率いて日本列島へ渡ったと伝えられます。それ以前とは異なる、大規模かつ計画的な移住だったようです。現在も日本各地に「徐福伝説」が残っています。

こうした紀元前3~2世紀の大陸の混乱によって、渡来人が増加した可能性があります。北部九州では早い段階から鉄が流入していたとみられ、その後の人の移動とともに、紀元前後から鉄器が次第に広まっていきました。同じ頃、高地性集落も拡大していきます。

鉄器の普及と高地性集落

鉄器と高地性集落の分布から、北部九州~瀬戸内~畿内の間で、武力衝突を伴う政治的な対立があったと推測されています。

また、山頂部に濠が巡らされていたり、尾根の先端が人工的に切断されていたりと、人が生活した痕跡のない場所も存在します。そうした場所は「祭祀」や「聖域」と呼ばれる特別な空間だったと考えられています。

ここから考えられる高地性集落の存在意義は、次の通りです。

  • 軍事施設としての役割(武器が多数出土する遺跡を含む)
  • 鉄を含む物資輸送の要となる交通路を見張る役割
  • 社会的階層や格差といった序列関係を示す心理的・宗教的な理由

弥生時代、日本列島だけでは鉄の需要を賄えなかったとされます。6世紀、古墳時代の終末期に至るまで、鉄の原料は朝鮮半島南部から入手・使用されていたようです。今後の研究で見直される可能性はありますが、紀元200年前後には広島県三原市の小丸遺跡のように、製鉄に関わる遺跡とされる場所もあります。

北部九州~瀬戸内~畿内の対立と「仲介地域」

ここで、北部九州~瀬戸内海~畿内で武力衝突があったと仮定してみましょう。北部九州なら鉄は比較的容易に手に入り、朝鮮半島と直接交渉できるルートもあったはずです。

実際、朝鮮半島と北部九州の間に位置する島からは、朝鮮半島には見られない風習である「抜歯(歯を抜く習俗)」を持つ人骨が複数見つかっています。この風習は日本列島に根ざしたもので、人骨の形質も北部九州に暮らした「倭人」と非常によく似ているといわれます。現地との交易に倭人が関わっていたことをうかがわせます。

しかし、他の地域はそうはいきません。何らかの仲介が必要だったようです。地図で見ると、朝鮮半島・中国と瀬戸内~畿内の間には、吉備(岡山県周辺、広島県東部、香川県の島々、兵庫県西部)、出雲(島根県東部)、丹波(京都府中部、兵庫県北部、大阪府北部)が位置しています。

後の時代から振り返ると、いずれの地域も鉄と非常に深い関わりを持ち、この時代に大きな勢力を誇っていました。吉備には前述の小丸遺跡が含まれますし、出雲の国名の語源は、歴史的仮名遣いの「いづも」、すなわち「出鉄(いでてつ)」ではないかという説すらあります。丹波からも多くの鉄が出土しています。

なぜ鉄との関係が深まったのか?

自然環境の恵みはもちろんのこと、これらの地域は他の地域よりも中国や朝鮮半島との交流が活発だったようです。実際、これらの地域からは中国・朝鮮半島との交流を示す証拠が数多く出土しています。

ここで新たな疑問が浮かびます。当時、中国でも朝鮮半島でも鉄の流通ルートはすでに確立されていました。では、生活のために鉄を得ようとしたとき、倭のクニは何を対価として支払っていたのでしょうか?

もし北部九州~瀬戸内海~畿内で戦争があったのなら、北部九州以外の場所で鉄を入手するとき、吉備・出雲・丹波が仲介役を担っていたのではないでしょうか。そのとき、倭国が鉄を得るために支払った対価とは、一体何だったのでしょうか?

古墳をつくるヒントは、そこに隠れているように思います。

鉄以外の特産品

吉備・出雲・丹波では、緑色凝灰岩(グリーンタフ)地帯で産出されるヒスイなどを素材に、貴重な勾玉や管玉が作られました。丹波では水晶玉も作られたようです。また、塩も吉備の特産品として知られています。

中国では長きにわたり、庶民にも富裕層にも不可欠な塩が専売制の対象でした。後漢(25年~220年)の時代も例外ではなく、財政上の理由に加え、馬を維持するため(=軍事力確保のため)必要だったとも考えられます。

玉の材料の産地は地域によって偏りがあります。水晶は中国では現在の四川省や江蘇省などで産出しますが、ごく一部の地域に限られ、貴重だったと考えられます。朝鮮半島においても同様に高い価値を持っていました。

さらに、日本で産出される翡翠(ひすい)は、中国や朝鮮半島では入手できません。アジアで翡翠が採れる地域は、ほぼ日本とミャンマーに限られるといわれています。

おそらく、こうした玉を中心とした品々が鉄と交換されたのではないでしょうか。あるいは、生口(せいこう=捕虜や奴隷)を送っていた可能性もあります。

また、日本側が鉄を確保するために必要だった要素を挙げると、次のようになります。

  • 鉄を得るための交渉窓口
  • 相手方の信頼を勝ち取る立場
  • 場合によっては武力を誇示できること など

こうした条件が求められると、小規模な社会における「農と戦の指導者」という立場だけでは、交渉が立ち行かなくなります。権力の格差を大きくし、指導者の権威を高める必要が出てくるのです。この過程で「クニ」が生まれたと考えるのが自然でしょう。

そうした状況の中で、日本海側を中心に、吉備や出雲のような、いわば「大首長」と呼ぶべき人々が現れ始めます。墳丘墓と呼ばれる大型の墓も、2世紀以降に見られるようになりました。

おそらく、先に挙げた高地性集落の存在意義の一つである「序列関係」という心理面が、墳丘墓の成立に影響したのでしょう。

大きく高い場所に墓を築けるほどの「権威」を持つことは、相手の信頼を勝ち取れる立場にあり、それだけの人員(=武力)を動員できることを意味します。そう考えられないでしょうか?

鉄の需要が高まる
↓
鉄を得るための窓口(交渉ルート)が必要になる
↓
相手の信頼を得られる立場が求められる
首長が権威を獲得する
↓
鉄を手に入れる首長への依存度が高まる
↓
墓に権威を示す
↓
古墳時代へ

おそらく、このような流れだったのではないでしょうか。

57年に授与された「漢委奴国王」金印、『後漢書』東夷伝に記された160人の生口の献上、そしてその後の朝貢の記録は、この一連の流れの一部を示しているのかもしれません。倭の対外政策は、朝鮮半島南部への影響力を基盤としていたようです。

参考文献

  • NHK「日本と朝鮮半島2000年」プロジェクト(2010年)『日本と朝鮮半島2000年』
  • 松木武彦『旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記』小学館、2007年
  • 安田喜憲『気候と文明の盛衰』朝倉書店、1990年