政治の中心から取り残されたこの時代、地方では自らの勢力拡大を目指す豪族や有力農民が台頭していました(この流れについては後日詳しく解説します)。彼らは自らの権益を守り、さらに広げるために武装するようになり、ここに武士が誕生したのです。
当時の地方は荒廃し、盗賊が横行し、私戦が頻発していました。当然ながら朝廷は治安の回復を図るため、押領使(おりょうし)や追捕使(ついぶし)を現地へ派遣します。任じられたのは主に中・下級貴族でしたが、その中には任地にとどまって現地の有力武士となった者もいれば、別の道をたどって武士化した者もいました。
平氏の始まり
こうした武士たちは互いに抗争を繰り返しながら、国司に反抗する勢力として、やがて大きな武士団へと成長していきます。特に東国は良質な馬の産地とされ、高い機動力を武器とする武士団が発達したと考えられています。
東国の馬といえば、戦国時代の武田騎馬隊が真っ先に思い浮かぶでしょう。その存在を疑う説もありますが、騎馬隊が広く知られる背景には、甲斐が名馬の産地であったことがあります。『日本書紀』には「甲斐の黒駒」にまつわる記述があり、壬申の乱では馬に乗った甲斐の勇士が大友皇子側の軍将を射抜いたという逸話など、甲斐と馬にまつわる物語は数多く伝えられています。
こうした武士団の一つこそが、平氏です。それでは今回の本題である平氏の始まりを見ていきましょう。
桓武天皇と臣籍降下
第50代の桓武天皇は、多くの后妃と子女に恵まれていました。しかし税収の減少も重なり、大勢の后妃や皇子女を養う財政事情は厳しさを増していきます。そこで打ち出されたのが臣籍降下でした。天皇が平朝臣の姓を授けたことから、平氏の歴史が幕を開けたのです。
桓武天皇と縁の深い子孫の系統は「桓武平氏」と呼ばれます。また、桓武天皇の孫にあたる仁明天皇につながる系統も臣籍降下して平姓を受けましたが、こちらは「仁明平氏」と称されます。同様に、仁明天皇の皇子である文徳天皇と光孝天皇を祖とする平氏は、それぞれ「文徳平氏」「光孝平氏」と呼ばれています。
最も栄えた桓武平氏
数ある平氏の中で最も繁栄したのが桓武平氏です。
桓武天皇の孫(または曽孫)にあたる高望王が臣籍降下して平姓を賜り、寛平10年(898年)に上総介(現在の千葉県中部)に任じられ、実際に任地へ赴きました。
当時の受領は、任地に出向かず「遥任」といって名義だけを貸し、国司としての収入のみを受け取るケースが少なくありませんでした。それでも中央に身を置いていては将来の展望が乏しいと判断したのでしょう。平高望は上総へ実地に赴き、任期を過ぎても中央政界へ戻ることなく、常陸国(現在の茨城県)、下総国(現在の千葉県・茨城県・埼玉県および東京都の一部)、上総国で開墾地を次々と切り開いていったのです。
※887年には藤原基経の阿衡事件(基経と宇多天皇の対立)が起こっており、藤原北家の権力が中央政界を次第に覆いつつあった時期だけに、高望の決断は時代の趨勈を見据えたものだったと言えます。
そうした平高望には複数の男子がいました。母を藤原氏の娘とする説がある三男?良望(よしもち、通称・国香)を筆頭に、良兼、良正、良茂(良開、詳細は不明)といった兄弟たちです。
のちに平氏の内部抗争が勃発すると、良将の子である平将門が乱を起こし、これを鎮圧した国香の子・平貞盛の子孫が栄えていくことになります。もちろん、貞盛の子孫には平氏の全盛期に活躍した平清盛も含まれています。
なお平清盛の時代の平氏は、東国ではなく西国を本拠とし、瀬戸内海の水軍を主力としていました。一方で東国に根を張っていたのが、坂東平氏の流れを汲む平将門です。東国ならではの特性、とりわけ騎馬の機動力を存分に活かした武士たちが活躍し、乱世を制していったのです。将門自身も馬との縁が深く、その家紋には馬をかたどった紋が用いられたと伝えられています。