織田信長について調べると、居城が次々と移り変わっていることに気づきます。当時の戦国大名は、そう簡単に本拠地を変えることはありませんでした。
この記事では、信長の「居城を移す」という行動を、戦略や領国経営の観点から見ていきます。
信長は
那古野城 ⇒ 清洲城 ⇒ 小牧山城 ⇒ 岐阜城 ⇒ 安土城
と、その時々の状況に合わせて居城を変えてきました。
こうした発想ができるのは、父・織田信秀の存在が大きいでしょう。信秀も当初は勝幡城を居城としていましたが、1532年に那古野城を奪取して居城とし、その後古渡城へと移っています。
父の背中を見て育ったからこそ、「居城を移すこと」自体が戦略になり得たのだと言えるでしょう。
那古野城(名古屋城)
那古野城は1532年まで、今川氏豊の居城として、現在の愛知県名古屋市中区に位置していました。
1532年、那古野を手に入れた織田信秀は、まだ幼かった信長に那古野城を譲ります。信秀自身は三河攻めに備えて古渡に城を築き、そちらを居城としました。
こうして信長は幼くして那古野城主となりますが、1536年の元服以降は、自らの判断で城の運営を行うようになっていきます。
当時、父・信秀は美濃の斎藤道三や、三河の松平清康(家康の祖父)と対立を繰り返していました。しかし松平清康が没すると、東海一の弓取り・今川義元率いる今川氏と対峙することになり、次第に押され気味になっていきます。
武将として優れた信秀でしたが、二大戦国大名を相手にした戦いは苦戦を強いられました。その証拠に、嫡男・信長と道三の娘・濃姫との政略結婚が行われています。
織田家の内紛と斎藤道三の死
1551年、信秀が急死し、信長が家督を継ぎますが、織田家では家督をめぐる争いがくすぶっていました。
当時の尾張は、清洲城主・織田信友が実権を握っていました。信長の織田家(弾正忠家)はもともとその被官にすぎませんでしたが、父・信秀の時代に尾張西部を支配する一大勢力へと成長していたのです。
父・信秀の死後、信長の家督継承に異を唱えたのが清洲城主・織田信友でした。信友は信長の弟・織田信行(信勝)を擁立して信長と対立します。ここで信長は守山城主・織田信光の協力を得て、反信長勢力を一掃していきます。
こうして信長は清洲を圧倒し、事実上の清洲城主となります。
この清洲は、鎌倉街道と伊勢街道が交わる交通の要衝であり、尾張国の中心として栄えていた土地です。そこで信長は那古野を叔父・信光に任せ、自らの居城を清洲城へと移したのです。
名実ともに織田家の棟梁となった信長でしたが、その力量を疑う織田家の重臣たちは、信長を廃して弟・信行を擁立するクーデターを画策します。
信長側には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが付き、両派閥は衝突することになりました。
そんな中、1556年、美濃の斎藤道三が息子・義龍の謀反により敗死します。道三の死を好機と見た信行は同年8月に挙兵しますが、敗北します。
信長は城に籠る信行を包囲しましたが、母の仲介によって許しを与えます。この対応に感銘を受けた柴田勝家ら重臣は、以後、信長への忠誠を誓うことになります。
しかし1557年、信行は再び謀反を企てます。ところが信長と通じていた柴田勝家の密告により、信長は信行を誅殺する措置を取ったのです。
この頃、信長は尾張上四郡の支配者・織田伊勢守家の織田信安とも不仲でした。一説には、これ自体が斎藤義龍の策略だとも言われています。そこで信長は信安討伐を決意し、従兄弟にあたる犬山城主・織田信清の協力を得て、これを滅ぼすことに成功します。
こうして1559年、信長は事実上の尾張の支配者となりました。
その後はご存じの通りです。
1560年、桶狭間の戦いで東海一の弓取り・今川義元を破り、織田信長の名は一躍全国に轟きます。
1562年には徳川家康と清洲同盟を結び、徳川氏を今川・武田に対する盾として活用することで、背後を気にせず美濃攻略や上洛を狙える体制を整えました。
ここから信長は、美濃攻略へと動き出していくのです。
清洲城〜小牧山城
信長は尾張の実権を握りましたが、北の犬山城を中心とする従兄弟・織田信清の勢力圏とは、依然として別個の状態にありました。
信清といえば、織田伊勢守家の織田信安攻めに協力した功労者です。
かつての織田伊勢守家の領土は信長と信清の間で分割されましたが、信清はその配分に不満を抱いていました。その不満を察知した当時の美濃・斎藤家当主義龍は、調略を駆使して信清を寝返らせようと図ります。この策略は、義龍の死後に効を奏することになるのです。
おそらく斎藤義龍は桶狭間の戦い以前から調略に励んでいたのでしょう。織田信安を滅ぼす過程にも、すでに義龍の工作が働いていた可能性があります。
1556年、父・道三を倒した義龍は、まるで縁を断ち切るかのように織田家へ調略の網を張り巡らせます。その結果が、織田家の内紛だったのかもしれません。義龍は父・道三に劣らぬ智謀の持ち主だったようです。
美濃攻めのきっかけ
一連の確執を整理し終えた信長は、次なる目標に美濃を定めます。
ここで信長にとって大きな転機が訪れます。
1561年、厄介な相手・斎藤義龍が急死したのです。
好機到来とばかりに美濃へ攻め込む信長ですが、竹中半兵衛らの奮戦により苦戦を強いられます。しかもその最中、織田信清が斎藤家へ寝返ってしまうのです。こうなれば、もはや美濃どころの騒ぎではありません。
尾張北部が斎藤家の手に落ちれば、美濃攻略のためになんとかする必要があります。信清の居城・犬山城を攻めることになりますが、犬山城はそう簡単に落とせる城ではありません。
この犬山城は、木曽川沿いの標高約88メートルの丘陵に築かれた山城です。実は信長軍は、山城を攻めた経験がなかったのです。それを可能にするには、まず軍を鍛えなければなりませんでした。
小牧山城の築城
ところが、この清洲には山がありません。
そこで信長は、小牧山に城を築くことを思いつきます。山城攻めの訓練ができ、犬山城攻略の足がかりにもなる――まさに一石二鳥だったのでしょう。加えて、稲葉山城を望む絶景の地でもありました。
そして1563年、信長は小牧山に城を築きます。これが信長が初めて自ら築いた城です。
かつて小牧山城は、岐阜城への橋渡し的な存在と評価されていました。しかし近年の発掘調査により、新たに城下町が整備されていたこと、本丸が石垣で覆われていたことなどが判明し、その構造は後の安土城に通じる先進的な城だったことがわかってきました。
小牧山城は美濃・稲葉山城攻略に備えて築かれた、と語られることが多いのですが、築城時の状況や立地を考えると、小牧山城は犬山城攻略のための拠点と見るのがむしろ自然でしょう。
結果として、小牧山築城の4年後に稲葉山は陥落しています。信長は長期戦を見据えて、あらかじめ居城を移しておいたのかもしれません。
もし1564年に竹中半兵衛らによる稲葉山城乗っ取り事件がなければ、稲葉山城攻略はさらに遠のいていたかもしれません。
小牧山築城後の信長は、犬山城の支城網を断ち切るため、周辺の支城を攻略していきます。これは武力によらず、主に調略によって進められたと言われています。
こうして犬山城は孤立無援の状態に追い込まれますが、ちょうどこのタイミングで1564年、稲葉山城乗っ取り事件が発生します。信長はすぐさま首謀者・竹中半兵衛と交渉し、稲葉山城の明け渡しを求めますが、交渉は決裂。半兵衛はわずか半年で稲葉山城を斎藤龍興へ返還します。
この一件により、斎藤家の内部分裂が露呈することになりました。ここから信長の怒涛の調略が功を奏し、西美濃三人衆や竹中半兵衛を次々と味方につけていくことになります。
そして激しい美濃攻防戦を制し、1567年、ついに稲葉山城を落としたのです。
ここからは岐阜城〜安土城の話となりますが、話が長くなってしまったため、続きは次回に持ち越したいと思います。