アジアの歴史

美濃の国守・土岐頼芸の時代に翻弄された生涯

麒麟がくるも明智光秀が主人公で美濃国を巡る大名と人間模様が展開されなかったら土岐家は一生極道扱いされていたかも知れませんが、光秀に仕える斎藤道三と土岐は彼の若い頃。家は切り離せないものだと思います。

今回はそんな土岐家の中でも大河ドラマに登場する土岐頼芸を中心に紹介していきたいと思います。

土岐頼芸年表

年表を確認すると、その人の人生の流れを把握することができると同時に、日本で何が起こっているのかを理解することができます。

土岐頼芸の生涯
  • 1502 年、土岐匡房の次男として生まれる
  • 1517年、兄頼武との戦いに敗れた。
  • 1518 年に再び挙兵し、兄頼武を破って追放した。
  • 1519年: 朝倉の援軍により頼武に敗れる
  • 1525 年に再び兵を集め、兄と戦います
  • 1526 年から 1527 年にかけて、側室の深芳野が斎藤道三に献上されました。
  • 1530 年に弟の土岐頼政を越前国に追放
  • 1535 年、父土岐匡房の 17 回忌に後見人となることを宣言。
  • 1536 年 美濃国を正式に守護する
  • 1539 年 弟の土岐頼純と講和
  • 1541 年、斎藤道三が弟の土岐頼芸を毒殺して対峙。
  • 1543 土岐頼芸、尾張に流される
  • 1544年 美濃侵攻作戦が実行される
  • 1547 土岐頼純が急死
  • 1552 年 美濃国から完全追放
  • 1554 年 天下の戦国武将を頼りに隠居
  • 1582 年死亡 (81 歳)

こんな土岐頼芸さん。 これだけ見ても、この時代特有のお家統治の争いに続く、波瀾万丈の人生を送っていることが分かります。追放後は諸国の大名を頼って立派に長寿を全うする。

頼業の子らは江戸幕府の旗手として家を出て、直接の血縁関係はないものの現在も残っている。

土岐頼芸の壮絶な生涯

土岐頼芸は 1502 年です。 現在の美濃国へ。 守護大名 (現・岐阜県) の土岐匡房 の次男として生まれました。守護職は国の一番偉い人ですから、土岐さんは美濃国の一番偉い人である斎藤道三です。 。斉藤さんは後見人(二番目に偉い人)でした。

1500 当時の美濃国の状況は、斎藤利邦の戦死直後から守護家が衰退の一途をたどっていた。この不安定な状態は土岐さんにも忍び寄る。

土岐頼芸・頼武兄弟、家督を争う

匡房 頼芸を慕っており、将来は治世を放棄することも考えていた。そこで 1517 年 頼武 VS 頼芸という対立構造が生まれました。 。家族不和に陥ります。初戦では頼芸が敗れたが、二戦目では頼芸が勝利した。

しかし、この時点ではまだ守護神という立場ではなかった。

この長い兄弟に終止符が打たれることになる。

1535 さらに土岐匡房さん。 頼芸は17回忌を機に、自分が土岐氏の正統な後継者であることを周囲に宣言する。当然土岐頼純です。 追放された兄の息子だった。激怒して再び兵を起こす。三男・源花が再スタート。

争いのさなか、頼芸は敵方と和解し、周囲を固めて頼純を追い詰めた結果、 家督を賭けた長きにわたる戦いに終止符が打たれたのが 1536 年 でした。 。 美濃国守護 王室憲章により正式なものとなりました。

こうして土岐頼芸は 両親と和解し、正式に美濃国の権力を掌握したかに見えたが、ここから転落の人生が待っていた。

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斎藤道三の台頭

土岐氏の戦いに勝利し美濃国の権力を掌握したかに思われたが天文14年(1541年) 。 守護代斎藤道三 頼芸の弟頼芸を暗殺します。

これが蹴りとなり、守護土岐頼芸と守護斎藤道三の間に亀裂が生じます。

なお、 道三は 1543 年 です。 。 土岐頼純 、和解した兄弟の息子、越前に追放したのかと思ったが、今度は土岐頼芸を尾張に追放する。しかし頼芸も黙っていない、 妻の実家である六角と尾張の織田信秀が、 の土岐頼純さん。 かつて対立していた私たちも味方して、美濃国への帰還を目指して美濃攻略の計画を立てます。

当時はまだ斎藤道三の後ろ盾が少なかった。 そうだったので、双方とも上がったり下がったりしました 1546 、 土岐頼芸の美濃後見が頼純に引き継がれることになります。 両社は和解する予定だ。この時、 道三の娘帰蝶が登場します。 頼純と結婚したとされる。

事件は解決したかに思えたが、斎藤道三は新たな手を用意できる。

1547 さらに土岐頼純も。 突然亡くなった。大河ドラマでも描かれていますが、斎藤道三殺害事件とも言われています。その結果、皆さんご存知の通り、頼純に嫁いだ帰蝶も斎藤家に戻り、その後、織田信長に嫁ぐことになりました。

こうして土岐頼芸は 頼純急死により後見復帰 しましたが、 この時は斎藤道三でした。 美濃との上下関係は逆転し、美濃守護者は単なる飾りに過ぎなかった。

1548 織田信秀と斎藤道三 天下泰平により娘・京蝶が織田信長に嫁ぐことになり、長らく争ってきた美濃と尾張の戦いも決着する。そのため、尾張の後ろ盾を失った土岐頼芸は、1552年に再び斎藤道三によって追放され、妹の妻である六角氏の世話になることになります。

場所ごとに変化する遊牧生活

追放された頼芸は、六角氏をはじめとする諸大名の由来を変える人生を歩み始めた。

やがて甲斐の武田氏の元へ移ります。

一方、 織田信長の 1582 年 。 主力となった。甲州征伐の際、武田氏に保護されていた頼業が発見される。美濃国に戻り、半年後に81歳で亡くなった。

NHK大河ドラマ『麒麟がくる』で土岐頼芸がどこまで描かれているかは分かりませんが、斎藤道三に仕えた明智光秀が描かれているので、ドラマ序盤の重要人物だと思います。そうみたいです。