木曽(源義仲) そういえば【粗野な田舎者】【戦争好き】【女好き】 ですね。 三拍子を持つ人物をよく思い浮かべるのは、平家物語では好戦的で怒りっぽい性格と解釈され、そのように書かれているからだと言われています。
実は義仲はあまり戦いが好きではありません。
市原の戦い、倶利伽羅峠の戦い、法住寺の戦い、 宇治川の戦い。 などはすべて敵が仕組んだ戦いだった。
また、誰かが悲しんでいれば自分が犠牲になるという自己犠牲の精神も持っていました。
そこで今回は木曽(源) 義仲です。 さらに深く掘り下げていきます。
木曽義仲[源義仲]の背景
義仲は武蔵国に生まれましたが、父の死後、信濃国に移りました。
彼は雄大な信濃の地でよく遊び、よく学び、物議を醸す心優しい青年に成長した。
1154 義仲は武蔵国に源義賢の子として生まれました。義教は源義朝の弟で、頼朝と義仲は従兄弟にあたります。
この頃、平氏が勢力を強め始め、新たな関東大名との連携を強めようとして、武蔵国秩父氏の娘婿に源義賢が生まれた。力。義仲だった。
しかし、1153 年に大蔵合戦が起こります。 同じく関東に進出していた源義朝と。そして義則は命を落としてしまう。まだ。幼い義仲は母とともに信濃国へ逃れた。
青春時代を過ごした信濃国で一生の伴侶を手に入れよう
信濃国の義仲は中原兼任です。 国府の。によって保護されます。
この時は源氏を名乗っていなかった【木曽次郎】 】 彼は【 木曽義仲 】と名乗っていたからです。 』と呼ばれるようになりました。また、 中原兼人の息子である今井兼平、 樋口兼光もいる。 義仲や兄弟たちと同じように成長し、平家平定の際には木曾義仲とともに大活躍します。
その後、 義仲の恋仲となった巴御前。 中原兼人の娘とも言われています。
ただし、巴御前は平家物語にのみ登場し、空想上の人物と言われています。
平治の乱 時を経て1159年、平氏と源氏が対峙した場所。源義朝は討ち取られ、息子の頼朝は伊豆に流罪となった。乳飲み子だった九郎義経は藤原秀衡です。 奥州平泉の。で育てられます。
平氏打倒に立ち上がった以仁王と源氏
1180 , 後白河第三皇子以仁王は平氏打倒を求める勅令を出しました。
これに対し源頼政らが挙兵する。この際、 全国の源氏ゆかりの皆様源行家へ。 訪問したのは頼朝・ 義仲です。 訪れました。
以仁王は源頼政とともに京へ向かうが、平清盛軍に敗れた。
同時期に伊豆国で育った源頼朝は死ななかったが、 【石橋山の戦い】 』で平氏軍に敗れました。
源頼朝と義仲の軍勢は順調に前進を続ける
この頃、義仲は挙兵に悩んでいたが、平氏と結んだ笠原氏が攻めてきたため、合戦に専念することを決意する。
この【市原の戦い】 】信濃各地の武士団を従えた義仲によって統治されていた。さらに父・義教に仕えた家臣や幼馴染軍団も義仲のもとに押し寄せ、軍の規模は増大した。
一方石橋山の戦い。 頼朝は【富士川の戦いからの再起を図った】 】 平氏から勝利を奪われると 1181 年 。 義仲軍と平氏討伐軍が越後で激突。
義仲軍の兵力は平家6万の半分にも満たなかったが、見事勝利を収めた。そのまま義仲は北陸道を越後から京都へ向かいました。
叔父を救うために息子を人質として差し出す
一方、源頼朝と義仲から平家討伐に誘われていた甲斐源氏の武田氏は、源頼朝に加わることを決意する。この時武田氏は【義仲は平家と通じている】と言いました。 。 』と偽りの情報を頼朝に与える。
義仲の拡大に不満を抱いていた頼朝は、この嘘を信じたかどうかは分からなかったが、信濃を攻撃する口実ができるとすぐに1183年3月に兵を送った。しかし義仲は平家を討つべき源氏に争う理由はないと言って軍を越後に帰還させた。
これに驚いた頼朝は敵対する叔父二人を引き渡すか、 長子を人質に取ったのです。 。 』その選択をするために義仲に近づきました。この要請に義仲が応じたのが長子 木曾義隆です。 二人の叔父の代わりに。鎌倉に贈られました。
頼朝はこの義仲の重大な選択について合意を結ぶ。長子義隆は後に頼朝の娘大姫の婿となった。
この長子の人質には義仲の思惑があり、頼朝に激怒した叔父を引き渡せば確実に命を落とすことになる。そうだったと言ってください。
木曽義仲は命を失いたくない、一度懐に入れた命は最後まで守り抜く懐の深さを持った人でした。弟たちを切り捨てる頼朝とは大違いですね…
火牛の総力で勝利を収めた倶利伽羅峠の戦い
1183 年 4 月 信濃国から北陸地方を支配した義仲を討つため 京都より[ 平維盛 ] 】十万の大軍を迎え撃った。
平維盛は反平氏の城、加賀国火打城を落とす。
この【火打城攻め】 』として義仲軍は越中へ退却した。この時、平氏追撃隊5000の情報を掴めば、義仲は6000の兵を率いて奇襲勝利を収めることになる。
* [般若野の戦い] ]
そして敗走した平軍は倶利伽羅峠です。 車で乗り込みました。
5 月 11 日 そこで義仲は密かに平氏の背後に兵を置き、夜襲の準備を整えます。
そして、平氏軍が眠りについた夜、一斉に攻撃を開始したのです。しかし、襲ってきたのは人間ではなく角に松明を括り付けた牛の大軍でした。 。そしてその数は400~500とも言われています。
平氏軍は猛牛の軍勢に混乱し、本隊7万はこちらへ逃げてくる。混乱に乗じて木曾義仲本隊が攻めてきた。襲撃を逃れた平さんが向かった先は倶利伽羅峠の断崖絶壁だった。
退路を断たれた平氏の武将や兵が次々と崖に落ち、その下には死者の山が積み重なっていたと伝えられている。このため、この崖は地獄谷と名付けられました。
この牛の角に松明を結びつける奇跡の攻撃作戦【 火牛の総計 】 』は『源平情水記』に登場する有名な場面だが、この史料は後世に書かれたものであるため、真実かどうかは疑わしい。
いずれにしても、 この倶利伽羅峠の戦いです。 平氏に多大なダメージを与えたのは言うまでもない。
木曾義仲、悲願達成
倶利伽羅峠の戦い で大勝利を収めた義仲は、北陸各地から京へ進軍します。
1183 年 7 月末 憧れの京都に入りました。
この時すでに平清盛は亡くなり、三男の平宗盛が跡を継ぎました。
平宗盛は、迫り来る義仲軍に対し、後白河法皇、安徳天皇とともに西へ逃亡する計画を立てる。これが俗に言う【 平氏都落ち 】です。 】 この時、後白河氏は平氏とは別行動をとって都に落ち、後に木曽義仲に保護されました。
後白河法皇は義仲の保護のもと、安徳天皇を奪い、三種の神器を持ち出した反逆者として平氏を義仲に送り込んだ。また、新天皇を決めることが急務となり、次期天皇が決定したが、この皇位継承問題が義仲と後白河の関係を最悪なものに変えた。
王位継承と源義仲
義仲は以仁王の遺児が次期天皇にふさわしいと考えた。
源氏が挙兵できたのは以仁王の勅命のおかげであり、平氏から京を救った最大の功労者である以仁王の息子が次の天皇になるのは当然だと主張した。
しかし、後白河は安徳天皇の弟である人物を即位させるつもりだった。
後白河法皇もその周囲の役人も、木曾義仲を推した人物が天皇になったら、次は義仲の横暴が始まるのではないかと懸念していた。
木曽義仲と後白河法皇の対立
義仲の思惑は果たせない 1183年8月20日 後鳥羽天皇 即位している。
その後、後白河法皇は源行家ら義仲と戦った仲間を引き入れ、義仲を孤立させる。さらに義仲が西国に遠征している間に後白河氏は源義経らの上楽行きを許し、源頼朝との距離を縮めた。
自分より功績の少ない源頼朝を重んじようとした白河法王を許せなかった義仲は、白河法王を討つために西国から帰国した【法住寺伝】 。 』と襲われます。これが法住寺合戦です。 は。
しかし、義仲が到着した頃には、宮殿の周りには堀と柵が設けられ、僧侶や将軍によって守られていました。朝になると敵になることを恐れた一部の兵は義仲軍を離脱した。
しかし、義仲の頼れる家臣である今井兼平と樋口兼光が戦況をひっくり返した。雲行きを悪くした白河法皇は御所から逃亡を図るが、義仲軍に捕らえられ投獄される。
残った僧侶や将軍らは戦死し、御所は焼かれた。
木曽義仲が源氏を征服した最初の将軍となる
義仲と後白河 法住寺の戦いにより関係は修復不可能となった。
義仲は命を落としませんでしたが、 執権近衛基通が命を落としました。 後白河氏のお気に入りだった。そして、彼の呼吸する人間を摂政にしました。
さらに後白河法皇の側近らも文治元年(1184年)1月11 日に相次いで解任されました。 。ついに木曽義仲が将軍に就任しました。 。就任いたします。源氏の初代将軍が頼朝ではなく義仲であったことはあまり知られていない。
義仲の場合は就任の1年後に亡くなっているので、単なる将軍だったとも言えます。
源義仲の最後
源頼朝は投獄された後、白河法王を助けるために京都に出兵した。
1184 源義経と源範憲は京都の宇治と瀬田に布陣し、 両側から京都を攻撃した宇治川の戦いです。 戦争が始まるだろう。
『平家物語』によれば、義経軍は約6万、木曽義仲軍は約200で、義仲に勝ち目はほとんどない。
命からがら京を脱出した義仲軍は、琵琶湖畔にたどり着いた時には義仲ら7頭の馬を従えていた。その中には兄弟のように育った今井兼平や、女性でありながら武将として共に戦った巴御前もいた。
今が逃げるしかないと判断した木曽義仲は、巴御前に対して【木曾殿が女を最後まで連れて行った】ことを知り良い気分ではありませんでした。ここを出て菩提を弔ってほしいのです。 』と言われます。
ここまでついてきてくれた巴御前に言うのは言い過ぎかもしれないが、 『生きて帰ってきてほしい』 。 』義仲の願いが垣間見えるシーンです。その言葉に巴御前は「 これが今世の別れなら、 巴の最後の戦いを見せてやろう」と言いました。 。 』と迫り来る戦士たちに突進し、相手の首をひねるという強力な技だ。
そして振り返らずに戦場を後にした。当時の戦場を物語る凄惨なシーンですが、巴御前の強さ、未来へ進む強さがよく表現されています。
その後、戦いながらボコボコにされ、最後は木曽義仲と今井兼平。最後に木曽義仲が矢に射られて命を落とすと、それを目撃した今井兼平も自害しました。
こうして木曽義仲軍は粟津ヶ原の 【粟津の戦い】に参戦した。 。 』と平家物語には源頼朝が勝ったと書かれています。
木曽義仲は31歳という短い生涯でしたが、短いながらも壮絶な生涯を送りました。