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【徳川家斉】子供は53人?11代将軍は政治より子作りに励んだのか?

【徳川家斉】子供は53人?11代将軍は政治より子作りに励んだのか?

「改革なんて、みんなに嫌われるようなものじゃないよ!」

そう語ったのは、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉(とくがわ いえなり)です。

実はこれは漫画のセリフですが、実際の家斉もまさにその通りの人物でした。

家斉は40人以上の側室を抱え、そのうち16人との間に53人もの子供をもうけた、屈強な体躯の「ビッグダディ」だったのです。

なぜ将軍でありながら政治を顧みず、多くの子供をつくったのでしょうか。あるいは、つくる必要があったのでしょうか。

当時の歴史的背景とともに詳しくご紹介します。


「田沼時代」と呼ばれた時代

【徳川家斉】子供は53人?11代将軍は政治より子作りに励んだのか?

9代将軍・徳川家重(とくがわ いえしげ)、10代将軍・家治(いえはる)の時代、老中・田沼意次(たぬま おきつぐ)を中心とした幕政改革が行われ、この時代は「田沼時代」と呼ばれるほど田沼が権勢を誇りました。

それ以前、8代将軍・吉宗(よしむね)は「享保(きょうほう)の改革」で倹約(けんやく)を推進し、幕府財政の立て直しを図りました。しかし同時に年貢の増徴を行ったため、農民の不満が高まる傾向にありました。

田沼意次は、農民に重税を課すのではなく、商業を振興させて富を増やし、財政再建を目指すという、吉宗とは正反対の考えを持っていました。

この時代、貨幣経済や商品経済の発展によって資本主義が進み、商人たちが成功を収めました。

しかし一方で、役人の間で賄賂(わいろ)が横行し、「賄賂政治」のイメージが定着してしまいます。さらに都市と農村の利益格差が拡大し、農民が田畑を捨てる事態も増加しました。

本記事の主人公である11代将軍・家斉が就任すると、乱れた世の中を正すべく田沼意次は罷免され、吉宗の孫にあたる白河藩(陸奥国白河)藩主・松平定信(まつだいら さだのぶ)による「寛政(かんせい)の改革」が始まりました。

「白河の清きに魚も住みにけり 濁りて田沼の世ぞすみゆる」

こんな狂歌が庶民の間で流行するほど、定信には大きな期待が寄せられていたのです。


徳川家斉、多くの子供をつくるまで

倹約を推し進めた「寛政の改革」

10代将軍・徳川家治の長男が18歳で亡くなると、他に後継ぎとなる男子がいませんでした。そこで御三卿(ごさんきょう)の一橋家の長男である家斉が、養子として将軍家に迎えられることになったのです。

家治が死去すると、家斉は15歳の若さで第11代将軍に就任します。

御三家の推薦により、若い家斉が成長するまでのつなぎ役として松平定信が起用され、幕政が託されることになりました。

ところが、定信の「寛政の改革」は、綱紀は、綱紀粛正を掲げるあまり極端な倹約を強要し、経済や文化の停滞を招いた、反発を買う改革となってしまいました。

田沼意次を批判していた頃は人気を集めていた定信ですが、次第に風向きが変わり、かえって田沼の時代を懐かしむ声が上がるようになりました。世論とは本当に移ろいやすいものです。

さらに家斉からの信頼を失い対立が深まったことで、定信はわずか6年で失脚することになります。

「大御所時代」の絢爛豪華な暮らし

【徳川家斉】子供は53人?11代将軍は政治より子作りに励んだのか?

定信の失脚後に幕政を託されたのは、松平信明(まつだいら のぶあき)という人物でした。

しかし信明は定信のもとで幕政に携わっていた人物だったため、人が変わってもやっていることは寛政の改革の延長線上にすぎませんでした。

25年後、信明が死去すると、家斉は寛政の改革関係者を遠ざけ、かつて田沼意次に仕えていた水野忠成(みずの ただあきら)に幕政を委ねます。

すると今度は「賄賂政治」が再び横行し、財政破綻と綱紀の紊乱を招きました。家斉自身も贅沢な生活を送るようになったのです。

家斉は65歳で将軍職を息子に譲りましたが、その在職期間は50年に及び、歴代将軍中最長の記録となっています。その後も大御所として、69歳で亡くなるまで幕政の実権を握り続けました。

家斉の死後、「享保」「寛政」と並ぶ江戸三大改革の一つである「天保(てんぽう)の改革」が始まります。

しかし腐敗した幕府の権威はすでに低下しており、それに対抗して力をつける大名も増えたため、日本は「幕末」へと突き進んでいくことになるのです。


徳川家斉はなぜ53人の子供をつくったのか

【徳川家斉】子供は53人?11代将軍は政治より子作りに励んだのか?

江戸時代における子供の生存率

江戸時代に限らず、昔は医療が十分に発達しておらず、飢饉(ききん)や感染症が流行すれば、抵抗力の低い子供から亡くなっていきました。将軍家の子供といえど例外ではありません。

当時の食事は米と野菜が中心で、一見健康的に見えますが、栄養バランスはまったく考慮されていませんでした。

身分の高い子供ほど厄介だったのが、乳母が顔から首、胸にかけて塗ったお白粉(おしろい)ではないでしょうか。

お白粉には鉛中毒の原因となる鉛が含まれており、赤ちゃんがそれを舐めたまま体に塗られ続けるため、徐々に後遺症として現れました。

こうした理由から、当時の子供の生存率は50%未満だったと言われています。

現代にも残る行事「七五三」。3歳、5歳、7歳の子供の無事を祝うこの行事は、当時は今よりもずっと重みのあるイベントでした。容易に命を落としてしまう子供たちの健やかな成長を願ってのことだったのです。

実際、家斉の53人の子供のうち、成人できたのは半数の28人でした。

家斉の後を継いだ12代将軍・家慶(いえよし)も27人の子供をもうけましたが、成人したのは13代将軍となる家定(いえさだ)だけでした。家定は病弱でしたが、他に後継者がいなかったため、家督を継ぐほかなかったのです。

一橋家による徳川宗家の血筋戦略?

「徳川宗家は一橋家の血筋だけでいい!」

真偽は定かではありませんが、家斉がこれほど多くの子供をつくったのは、一橋家から将軍職を継ぐために養子に入った際に言われた言葉が理由だと言われています。

家斉は食事で高タンパクの乳製品を好み、生姜やオットセイの陰茎の粉末を飲んで精力の増強を図っていたそうです。オットセイは一頭のオスが複数のメスを独占してハーレムをつくる動物です。まさに家斉そのものであり、当時から「オットセイ将軍」と呼ばれていました。

そして家斉は幕政にはほとんど関わらず奥へ引きこもり、50歳を過ぎてもなお子作りに精を出し続けていたのです。

おかげで家斉の子供たちは、水戸徳川家を除く御三家・御三卿に養子として迎えられました。

14代将軍・家茂(いえもち)も紀州家の出ですが、血統的には家斉の孫にあたります。

そんな養子戦略を仕掛けていたのは一橋家でしたが、皮肉にも一橋家自身は8代目で血筋が絶えてしまい、15代将軍・慶喜(よしのぶ)は水戸家から迎え入れることになりました。まさに「灯台下暗し」とはこのことでしょう。