本記事では、イギリスがインドの刑事行政をどのように統制下に置いていったのかについて解説します。植民地時代の司法・行政制度の変遷は、現在のインド、とりわけビハール州の地方行政区画を理解するうえでも重要なテーマです。
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イギリスによる刑事行政の統制
1790年頃までに、イギリスはそれまで在地の司祭層が担っていた宗教的・祭司的な行政機能をも自らの支配下に置きました。そして、チャールズ・フランシス・グランド(Charles Francis Grand)をパトナ初の判事(マジストレート)に任命し、イギリス式の司法行政の運用を本格的に開始しました。
続く1835年には、ティルート(Tirhut)地方がムザッファルプルとダールバンガーという二つの行政単位に分割されました。
さらに1865年には、パトナ県とガヤ県がそれぞれ独立した行政区画として正式に組織されました。翌1866年には、サラン県が二つの地域に分割され、一方はサハーン、もう一方はチャンパーランと呼ばれるようになりました。
このようにイギリスは、司法権と行政権を段階的に集中させるとともに、徴税の効率化や治安維持を目的として行政区画の再編を繰り返しました。これらの施策は、植民地統治の仕組みを理解するうえで欠かせない要素であり、今日のビハール州の県割りの原型を形作ったものといえます。