アジアの歴史

ワッハーブ運動の歴史|インドにおける展開と反英闘争の全貌

本記事では、19世紀のインド亜大陸に大きな影響を与えた宗教改革運動であり、同時にイギリス支配への抵抗運動でもあった「ワッハーブ運動」の歴史について詳しく解説します。

ワッハーブ運動の起源

ワッハーブ主義の創始者は、アラビア出身のムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブ(1703年~1792年)です。彼は聖典『クルアーン』とハディースへの回帰を掲げ、当時のイスラーム社会に浸透していた聖者信仰などの慣行を批判し、純粋な一神教の復活を訴えました。この思想は彼の名前にちなんで「ワッハーブ派」と呼ばれるようになりました。

インドにおける指導者:サイイド・アフマド・バレールヴィー

インドにおけるワッハーブ運動の創始者であり最初の伝道者となったのは、1786年に現在のウッタル・プラデーシュ州ラエーバレーリーで生まれたサイイド・アフマド・バレールヴィーです。彼は初めてパトナを訪れた際、ムハンマド・フサインを首席代表に任命しました。さらに1821年に再びパトナを訪れた際には、四人のカリフ(後継者)を任命しています。その名は以下の通りです。

  • ムハンマド・フサイン
  • ヴィラヤット・アリー
  • イナーヤト・アリー
  • ファルハト・アリー

バーラーコートの戦いと殉教

1831年、サイイド・アフマドはシク勢力とのバーラーコートの戦いで戦死しました。この戦いにおけるシク側の司令官はシェール・シングでした。彼の死後、デリーのムハンマド・ナスルッディーンが後継者の選定に関わりましたが、運動の実質的な指導権はヴィラヤット・アリーの手に委ねられました。

反英運動としての展開

ワッハーブ運動は、本質的にはムスリム社会の改革運動でしたが、やがてイギリス植民地政権に対する強固な抵抗運動へと発展していきました。北西辺境のアフガン系部族の協力を得て、ワッハーブ派はシターナーに独立した拠点を築きました。同時に、軍事・経済面での支援拠点がパトナに設けられ、ここから資金と義勇兵がシターナーへと送られ続けました。

ベンガル地方のファラーイズィー運動もこの運動に触発されたもので、ハージー・シャリーアトゥッラーに率いられたこの運動は、1828年から1868年にかけて重要な活動基盤となりました。

1857年の大反乱とイギリスによる弾圧

パトナのワッハーブ派活動家たちは、1857年のインド大反乱の際にも極めて活発に活動しました。こうした動きを警戒したイギリス当局は、ビハール地方におけるワッハーブ運動の鎮圧を目指して、1863年のアンベーラにおける扇動罪の裁判、および1865年のパトナにおけるワッハーブ派裁判を実施し、多くの指導者に投獄刑を言い渡しました。

1868年には、パトナでチュンニーとムハンマド・イスマーイルが逮捕されました。さらに1869年には、アミール・ハーンとその同志が終身流刑(いわゆる「黒水」刑)を宣告され、アンダマン諸島へ移送されました。これらの一連の弾圧によって、運動は次第に勢いを失っていきました。しかしながら、ワッハーブ運動がイギリス支配に対する重要な反乱であったことには変わりありません。

ワッハーブ運動の歴史的意義

ワッハーブ派は、イギリスの諸機関をボイコットした最初の実例を示し、この手法は後にインド国民運動の指導者たちにも採用されることになりました。つまり、ワッハーブ運動は単なる宗教改革運動にとどまらず、帝国主義に対抗する政治的闘争でもあったのです。なお、この運動の信奉者たちは、自らを「アフル・ハディース(ハディースの民)」と呼んでいました。