アジアの歴史

ウッドロー・ウィルソンはどうやって議会を説得し、アメリカを第一次世界大戦へ参戦させたのか?

「ウッドロー・ウィルソン大統領は議会を説得してアメリカを第一次世界大戦に参戦させた」という表現は、実は必ずしも正確ではありません。ウィルソン自身は開戦当初、徹底した中立政策を掲げており、1916年の大統領選挙では「彼が我々を戦争に巻き込んだ」という批判を退けて再選を果たしたほどでした。しかし、ドイツ側の一連の挑発行為によって情勢は劇的に変化し、ウィルソンはやむなく議会に宣戦を要請することになったのです。

中立政策からの転換――二つの決定的な出来事

無制限潜水艦作戦の再開

第一次世界大戦中、ドイツ海軍はイギリスを海上封鎖するため、Uボート(潜水艦)による通商破壊戦を展開しました。1915年には客船ルシタニア号が撃沈され、128人のアメリカ人が犠牲となるなど、国内の反独感情は次第に高まっていきました。そして1917年2月1日、ドイツは「無制限潜水艦作戦」を再開します。アメリカ船籍の船舶まで攻撃対象とされ、実際に複数のアメリカ商船が沈められたことで、中立の維持は事実上不可能な状況に陥りました。

ツィンメルマン電報事件

決定的な打撃となったのが、イギリス情報部が傍受・解読した「ツィンメルマン電報」です。この電報の中でドイツのツィンメルマン外相は、メキシコに対米参戦を呼びかけ、見返りとしてテキサス州・ニューメキシコ州・アリゾナ州の割譲を約束していました。1917年3月1日にその内容が公表されると、アメリカ世論は一気に硬化し、それまで中立を支持していた人々の多くも戦争支持へと転じていきました。

1917年4月2日、議会への宣戦要請

こうした出来事を受け、ウィルソンは1917年4月2日、連邦議会の両院合同会議で演説を行い、ドイツ帝国との戦争状態に入るための宣戦決議の採択を議会に要請しました。演説の中でウィルソンは「世界は民主主義にとって安全なものにされなければならない(The world must be made safe for democracy)」という有名な一節を残しています。彼はこの戦争を単なる報復ではなく、民主主義の防衛と恒久平和の確立のための闘いとして位置づけました。

議会の採決と宣戦布告

ただし、宣戦決議が即座に可決されたわけではありません。数週間にわたる審議の末、上院は4月4日に82対6、下院は4月6日に373対50で宣戦決議を可決しました。同日、ウィルソンが署名したことで、アメリカは正式に第一次世界大戦へ参戦することになります。つまり、ウィルソンが強引に議会を「説得」したというより、ドイツの行動が世論と議会の流れを大きく変え、ウィルソンの要請がその流れを後押しする形で参戦が実現した、と言うのがより正確でしょう。

まとめ

ウィルソンはもともと中立の堅持を目指していましたが、無制限潜水艦作戦の再開とツィンメルマン電報事件という二つの衝撃により、中立政策の継続は不可能だと判断せざるを得ませんでした。1917年4月2日の演説で宣戦を要請し、議会での審議を経て4月6日に宣戦が成立しました。アメリカの参戦は、一人の指導者の説得力だけでなく、国際情勢の激変と国民世論の変化が重なり合った結果だったのです。