殷(商)王朝の都として最も有名なのは、現在の河南省安陽市に位置する「殷墟(いんきょ)」です。しかし、同じ殷王朝の都でありながら、古い時代の都とされる「隞(おう)」については、その正確な所在地すら確定していないのが実情です。なぜこれほどまでに情報量の差があるのでしょうか。本記事では、その理由を歴史的背景とともに解説します。
殷王朝は一つの都だけではなかった
まず重要な前提として、殷王朝は一つの都のみを抱えていた王朝ではありません。古代の文献によれば、初代の湯(とう)が王朝を開く前に八回、建国後にも五回もの遷都が行われたとされ、これは「前八後五」と呼ばれています。湯が当初定めた都は「亳(ぼく)」と伝わり、その後、王の一人である仲丁の時代に「隞(おう)」へ遷都したことが記録されています。つまり隞は厳密には殷の最初の都ではなく、王朝中期の一時的な都だったと考えられているのです。
安陽・殷墟からは膨大な遺物が出土した
安陽について詳細がわかっている最大の理由は、1928年以降に中国で本格的に始まった考古学調査にあります。殷墟からは、王の占いの結果を刻んだ「甲骨文」と呼ばれる文字資料が十数万点以上も発見されました。さらに、巨大な青銅器の司母戊大方鼎や、副葬品がほぼ完全な状態で残されていた婦好墓など、王墓や祭祀に関わる貴重な遺構・遺物が次々と姿を現しました。
文字資料と遺跡の両方が揃ったことで、当時の政治体制、宗教儀礼、社会構造までを具体的に復元できるようになったのです。これは他の殷代の都にはない大きな強みといえます。
初期の都の特定が難しい理由
一方、亳や隞といった前期・中期の都については、状況が大きく異なります。第一に、後世の都市開発が幾度も繰り返された地域では遺跡が破壊されやすく、完全な形で残っていないケースが多いこと。第二に、甲骨文のような同時代の文字資料が出土しておらず、遺跡を特定の都と結びつける決定的な証拠がないことです。
現在では、河南省で発見された鄭州商城や偃師商城が、それぞれ亳や隞に該当するのではないかと推定されていますが、学術界の見解は依然として分かれたままです。
まとめ
安陽が詳しくわかるのは、「王朝最後の都として長期間栄え、文字資料を含む豊かな遺物が大量に地下に残っていた」ためです。対照的に隞などの初期の都は、短期間で放棄された上に決定的な考古学的証拠が乏しく、今後の調査の進展が待たれる研究テーマとなっています。殷王朝の都の変遷をたどることは、中国古代国家の成立過程を理解するうえで非常に重要な鍵となるのです。