アジアの歴史

クビライ・カーンは本当に中国人を重用しなかったのか?——漢人高官たちの活躍から見る元朝の人事

元朝の初代皇帝クビライ・カーン(フビライ・ハン)については、「漢人(中国系住民)を政府の重要な職務から遠ざけ、モンゴル人だけが権力を握った」という見方が広く知られています。確かに元代には民族ごとの序列が存在し、軍の最高指揮権や宮廷警備などはモンゴル貴族が担う傾向がありました。

しかし、それはあくまで一面にすぎません。実際のところ、クビライ・カーンは多くの中国人を側近や高官として積極的に登用しており、彼らは帝国の運営において欠かせない役割を果たしていました。

中国人高官たちの活躍

劉秉忠——帝国の設計者

最も有名な例が劉秉忠(りゅう・へいちゅう)です。彼は若い頃からクビライに仕えた腹心の参謀で、「大元」という国号の制定や首都・大都(現在の北京)の都市設計など、王朝の根幹に関わる事業を主導しました。太保に任じられ、宰相級の信任を受けた人物です。

史天沢——漢人出身の右丞相

さらに、華北の有力者だった史天沢は、中統年間に右丞相(国家最高行政機関の長官)に任命されています。漢人が宰相の座に就いた好例であり、軍事・行政の両面で絶大な影響力を発揮しました。

その他の側近たち

このほかにも、儒学的な統治理念を提唱した姚枢や許衡、行政を支えた張文謙や王文統、そして精密な「授時暦」を作った科学者の郭守敬など、多彩な人材がクビライ政権の中核を担いました。学校制度の整備や暦法の編纂といった文化政策も、こうした漢人官僚・学者の働きによるものです。

実務的な人事判断

クビライ・カーンの人事は、民族を問わず「実力があり、信頼できるかどうか」で判断される傾向がありました。広大な中国本土を統治するには、行政に精通した漢人の協力が不可欠だったからです。その一方で、モンゴル高原の支配や軍の中枢など、王朝の命脈に関わる部分はモンゴル人が握り続けました。

つまり「中国人を一切登用しなかった」わけではなく、「分野に応じて役割を分担させた」というのが実態に近いのです。単純な排除ではなく、多民族帝国ならではの柔軟な統治システムが、そこに存在していました。