アジアの歴史

アラブ帝国はいつ滅亡したのか?衰退の始まりから終焉までの歴史を解説

アラブ帝国(イスラーム帝国)の衰退は、実は8世紀にはすでに始まっていました。750年のウマイヤ朝滅亡がその最初の転換点となったのです。しかし、帝国の歴史はそこで終わりませんでした。後を継いだアッバース朝が数世紀にわたって帝国を維持し、イスラーム文明の黄金時代を築きます。本記事では、アラブ帝国がどのように栄華を極め、そしてどのような経緯で滅亡へと向かったのかを解説します。

ウマイヤ朝の滅亡(750年)―衰退の序章

アラブ帝国は、661年に成立したウマイヤ朝の時代に最大版図を誇りました。首都ダマスカスを拠点に、その支配域は西はイベリア半島(アル=アンダルス)、東は中央アジアやインダス川流域にまで及んでいます。

しかし、8世紀半ばになると、アラビア人エリート層への依存や非アラブ系ムスリム(マワーリー)への差別的な扱い、宗派間の対立といった内部矛盾が深刻化しました。750年、アブー・アル=アッバース率いる勢力による反乱でウマイヤ朝は打倒され、これが「アッバース革命」と呼ばれる政変となります。

アッバース朝の興隆と帝国の維持

ウマイヤ朝を倒したアッバース朝は、762年に新都バグダードを建設し、帝国の中核を再構築しました。ハールーン・アッ=ラシードの治世(786~809年)には学問・文化・経済が大きく発展し、「千夜一夜物語」に描かれたような繁栄を極めたといわれています。

とはいえ、この頃すでに帝国の一体性は揺らぎ始めていました。10世紀にはイラン系のブワイフ朝がバグダードを事実上支配し、カリフは宗教的権威だけを保つ存在へと変わっていきます。

11世紀以降―内憂外患による再びの衰退

11世紀に入ると、帝国は再び深刻な衰退局面を迎えます。主な要因は以下の通りです。

  • 内部対立: 宮廷内の抗争や地方政権の独立、宗派間の対立などにより、統治の基盤が弱体化しました。
  • セルジューク朝の台頭: 1055年にはトルコ系のセルジューク朝がバグダードを掌握し、カリフはふたたび傀儡と化しました。
  • 東ローマ(ビザンツ)帝国との戦争: 長期にわたる国境紛争が国力を大きく消耗させました。
  • 十字軍の侵攻: 11世紀末に始まった十字軍も、地中海沿岸地域に重い負担を強いました。

1258年バグダード陥落―帝国の事実上の終焉

決定的な打撃となったのが、1258年のモンゴル軍によるバグダード包囲です。フレグ・ハン率いるモンゴル軍は市街を攻略して略奪を行い、カリフを処刑しました。この事件によりアッバース朝は滅亡し、アラブ帝国は名実ともにその歴史に幕を下ろしたのです。

なお、カリフ制そのものはその後も存続し、エジプトのマムルーク朝のもとでは名目的なカリフが擁立され、1517年のオスマン帝国による征服まで続きました。しかし、バグダードを中心としたアラブ人による大帝国としての「アラブ帝国」は、1258年をもって終わったと一般的に評価されています。

まとめ

アラブ帝国の終わりは、単一の出来事ではなく、長い衰退プロセスの果てに訪れました。750年のウマイヤ朝滅亡が第一の転換点となり、アッバース朝が帝国を数世紀にわたって維持したものの、11世紀以降は内乱と外部勢力(東ローマ、セルジューク朝、モンゴル)の圧力によって弱体化。そして1258年、モンゴル軍によるバグダードの略奪が最後の一撃となり、アッバース朝とともにアラブ帝国は幕を閉じたのです。