攻撃前に最後通告は届かなかった
ワシントンD.C.の日本大使館は、真珠湾攻撃の前にアメリカ合衆国へ最後通告を提示することができませんでした。1941年12月7日(日本時間12月8日)、ハワイ・真珠湾の米海軍基地が奇襲された時点で、日本側からの通告書はまだアメリカ国務省に手渡されていなかったのです。
「14部に分かれた電報」と遅延の原因
東京の外務省から大使館宛てに送られたのは、日米交渉を打ち切る旨を伝える長文の電報でした。この電報は14の部分に分割されて送信され、さらに最終部と通告の提出時刻を指示する追加電報が続きました。
しかし、当時の大使館には暗号の解読やタイプライターによる清書を担う人員が少なく、長文の電報を処理するのに予想以上の時間がかかりました。特に最終部分の翻訳と清書が間に合わず、野村吉三郎大使がコーデル・ハル国務長官との面会に臨んだのは、ワシントン時間で午後2時20分頃。すでに攻撃開始から約50分が経過していました。
実は「宣戦布告」ではなかった?
よく誤解されますが、この通告書は厳密な意味での宣戦布告や最後通牒ではありませんでした。内容はあくまで「交渉打ち切り」を通知するものであり、攻撃そのものを事前に予告する性質の文書でもなかったとされています。それでも、攻撃が始まった後に通告が提出されたという事実は、アメリカ国内で「だまし討ち」「卑劣な奇襲」という印象を決定的に強めることになりました。
歴史に残る影響
ハル国務長官は通告を受け取った際、激怒したと伝えられています。この出来事はルーズベルト大統領による「屈辱の日(Day of Infamy)」演説にも反映され、アメリカ世論を一気に対日開戦へと傾かせました。通信技術や人員配置の不備が外交上の重大な結果を生んだ典型例として、この遅延は今日でも歴史の教訓として語り継がれています。