アジアの歴史

高杉晋作のクーデターと薩長同盟への転換――英仏の思惑が動かした幕末政局

幕府保守派による弾圧を避けるため、高杉晋作はやむなく九州へと逃れていました。しかし、幕府の長州征討軍が撤退すると、すぐさま長州へ舞い戻ります。

そして下関の功山寺において、戦わずして幕府に屈した保守派(俗論党)に反旗を翻し、藩の実権を取り戻すべく挙兵しました。これが歴史に名高い「功山寺挙兵」です。

高杉晋作のクーデターと藩論の転換

1863年(文久3年)、高杉晋作は、身分を問わず誰でも志願できる民兵組織「奇兵隊」を結成しました。隊士の3割以上が庶民で占められ、武士も農民も商人も対等な同志として集う、まさに義勇の集団でした。高杉の募集に呼応して駆けつけた仲間たちは、その後の戦いで大きな力を発揮することになります。

そして1865年(慶応元年)、高杉や桂小五郎(木戸孝允)ら尊王攘夷派(正義派)は、見事に藩の主導権を奪還したのです。

四国連合艦隊による下関砲撃戦での壊滅的な敗北を通じて、「攘夷」が不可能であることを痛感した高杉らは、藩論を「攘夷」から「開国(通商)」へと大胆に転換させ、富国強兵路線を目指すようになりました。

西洋式軍制に精通していた大村益次郎の指導のもと、藩の軍備近代化が本格的に進められます。武器は坂本龍馬が率いる「亀山社中」を通じて、イギリスから調達されました。

さらに、幕政改革の見通しが立たず強硬論が台頭していた薩摩藩とは、坂本龍馬を仲介役として「薩長同盟」を締結する運びとなるのです。

薩摩の藩論転換と列強の思惑

薩摩・長州両藩の藩論転換の背後で糸を引いていたのは、他でもないイギリスでした。

イギリスは、薩長を中心とする雄藩連合政権を樹立させることで、貿易上の利益拡大を図ろうとしていたのです。

1863年(文久3年)の薩英戦争以降、イギリスは薩摩藩に対して軍艦購入の斡旋や自国への留学生受け入れを行い、薩摩藩の近代化を支援してきました。さらに、藩論を転換した長州藩との貿易を拡大し、高杉晋作と土佐藩の過激派との交流を促しながら、雄藩連合政権樹立という構想を藩論者たちに説いて回りました。

一方、イギリスの動きに対抗して幕府側の支援に回ったのがフランスです。フランス公使ロッシュは、1865年(慶応元年)、幕府の要請を受けて横須賀製鉄所の建設を請け負うほか、1867年(慶応3年)には横浜に仏語伝習所を設立し、本国から軍事顧問団を招いて幕府の軍制改革を支援しました。

さらに徳川慶喜が第15代将軍に就任した後も、外交政策について助言を行うなど、幕府への支援を積極的に続けています。

この英仏の対立構造は、世界規模の植民地競争に直結するものでした。18世紀以来、各方面でライバル関係にあった両国は、対日政策においても同様の対立を繰り広げることになります。つまり、幕末の日本の動乱は、世界史的な視点から見れば「英仏対立の代理戦争」と捉えることもできるのです。

こうした情勢の中で、「兵庫開港問題」が表面化します。

イギリス外交官と密かに接触していた薩摩藩の西郷隆盛は、孝明天皇の反対で停滞していた兵庫開港をあえて実現させ、雄藩諸侯の主導で問題を処理するという構想(公議政体論)を抱いていました。

しかし、第15代将軍となった徳川慶喜は、孝明天皇との直接面会によって勅許を勝ち取り、外交の主導権が幕府にあることを内外に示してみせたのです。こうして幕府が主導権を握ったことで、薩摩藩は公議政体による政治運営を断念し、武力による討幕へと舵を切ることになりました。