北米の歴史

人権外交の旗手!第39代アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターの生涯

人権外交の旗手!第39代アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターの生涯

ジミー・カーターは、南北戦争以来「ディープサウス」と呼ばれるアメリカ深南部から初めて誕生した大統領であり、在任中のみならず退任後も「人権外交」を実践し続けた人物として広く知られています。

大統領になる前のジミー・カーター

ジェームズ・アール・カーター・ジュニアは、1924年に「ディープサウス」と称されるジョージア州で生まれました。「ジミー」はジェームズの愛称です。

カーターは、南北戦争時に南部連合側として離脱した南部10州の出身者として、戦後初めて選出された大統領でした。これは、アメリカ政治の主導権が歴史的に変化したことを示す出来事といえます。南北戦争以降の大統領は、オハイオ州やニューヨーク州を中心とする北部、あるいは西海岸出身者が多く、ニクソンら一部の例外を除けば、南部出身の大統領は長らく現れなかったのです。

カーターの父はピーナッツ農場を営む農場主、母は看護師でした。彼は第二次世界大戦後にジョージア工科大学から海軍兵学校(アナポリス)へ進学し、海軍将校として勤務。原子力潜水艦開発計画にも携わりましたが、父の死を機に除隊して故郷へ戻り、家業の農場を継ぎました。1962年にはジョージア州上院議員に当選し、政界への一歩を踏み出します。

1970年にはジョージア州知事に就任。公民権法の成立後もなお差別が色濃く残るディープサウスにおいて、人種差別の撤廃に尽力しました。

マーティン・ルーサー・キング牧師が「いつの日か、ジョージアの赤い丘で、かつて奴隷だった者の子孫と、かつて奴隷主だった者の子孫が、兄弟として同じ食卓を囲むだろう」と語った演説は有名ですが、それほどまでにジョージア州では黒人差別が公然と行われ、多くの政治家が差別的な発言を繰り返していました。そんな中、人種差別に真っ向から立ち向かったカーターの名声は、一気に高まっていったのです。

そして1976年、カーターは大統領選に出馬して当選を果たし、第39代アメリカ合衆国大統領が誕生しました。

第39代アメリカ合衆国大統領として

人権外交の旗手!第39代アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターの生涯

実はカーターは、就任式の祝賀パレードにおいて、リムジンに乗らず自らの足でペンシルベニア通りを歩いた最初の大統領でした。

当時のカーターは「ジミーって誰?(Jimmy Who?)」と揶揄されるほど無名の存在でしたが、このパフォーマンスによって、その存在感を一気に高めることに成功します。

理系出身という珍しい経歴を持つ大統領だったため、データを重視する傾向が強く、世論調査の結果にも大きな影響を受けながら政策を決定していたと言われています。

そうした資質ゆえに、その外交政策は「人権外交」という言葉で象徴されます。例えば、以下のような実績を挙げることができるでしょう。

  • パナマ運河をパナマへ返還する条約の締結
  • エジプトとイスラエルの和解仲介(キャンプ・デービッド合意)
  • アメリカと中国の国交正常化の実現
  • ソ連との軍縮交渉(SALT II)の推進

しかしながら、こうした融和的な外交は相手に弱みを見せる結果ともなりやすく、1979年にはソ連によるアフガニスタン侵攻、さらにイラン革命と在イランアメリカ大使館人質事件が相次いで発生します。

これに対抗してカーターはモスクワオリンピックのボイコットを決断しますが、大使館人質事件の解決には失敗。支持率は急落し、翌年の大統領選挙では敗北を喫することになりました。

こうしてカーターは、2期目を務められない珍しい大統領となりました。しかし2002年には、退任後の和平活動や人道貢献が評価され、ノーベル平和賞を受賞しています。

退任後も続いた人権活動

カーターの人権活動は、大統領退任後も止むことはありませんでした。キューバのフィデル・カストロ議長との会談、アフリカ諸国の問題への取り組み、北朝鮮訪問での金日成主席との会談、イスラエルの政策に対する批判的な発言など、その活動は実に多岐にわたります。

また、貧困問題の解決を目指すNGO「カーター・センター」を設立し、自らもボランティアとして住宅建設支援団体「ハビタット・フォー・ヒューマニティ」の活動に参加するなど、幅広い人道的活動に尽力しました。

2015年には悪性黒色腫(メラノーマ)であることを公表しましたが、治療を経て寛解し、その後も社会貢献を続けました。2024年12月29日、100歳でこの世を去るまで、精神力と行動力にあふれた人生を貫いた人物だったと言えるでしょう。