1850年逃亡奴隷法とは
1850年に成立した逃亡奴隷法(Fugitive Slave Act)は、北部の住民に対して逃亡奴隷の捕獲と所有者への返還に協力することを義務付ける連邦法でした。奴隷制を道徳的に悪と考える北部の人々にとって、この法律は良心に反するものであり、成立直後から強い反対と抵抗が巻き起こりました。
北部における主な反応
法への強い反対
北部の多くの人々は逃亡奴隷法に断固として反対しました。自らの信念にかかわらず逃亡奴隷の捕獲を強制されるこの法律は、奴隷制に深く反対する北部の人々の良心を著しく傷つけるものでした。
抵抗と非協力
北部各地の奴隷制反対活動家や市民は、さまざまな形でこの法律に抵抗しました。多くの州では「個人の自由法(Personal Liberty Laws)」が制定され、連邦法の執行を妨げる措置が取られました。これらの法律は、逃亡奴隷を助ける個人に法的保護を与えるとともに、奴隷狩人が北部で活動することを困難にしました。
地下鉄道(アンダーグラウンド・レイルロード)の役割拡大
秘密の経路と安全な隠れ家からなるネットワーク「地下鉄道」は、奴隷たちが自由な北部へ逃れるための重要な手段でした。逃亡奴隷法の成立後、自由州やカナダに避難を求める奴隷の数が増加し、このネットワークの重要性は一層高まりました。
廃止論運動の活発化
逃亡奴隷法は北部の廃止論(アボリショニスト)運動を刺激し、急進化させました。新たな奴隷制反対団体の結成が相次ぎ、奴隷制の拡大阻止と国家からの排除に向けて、活動家たちの決意はさらに固まることとなりました。
政治的再編の促進
この法律は南北間の緊張を高め、奴隷制をめぐる根深い対立を一層深刻化させました。逃亡奴隷法をめぐる論争は政党の再編にも影響を与え、奴を与え、奴隷制廃止を掲げる共和党が民主党に対する強力な挑戦者として台頭するきっかけとなりました。
まとめ:南北戦争への道
北部の逃亡奴隷法への反応は、強い抵抗と反対、そして逃亡奴隷の自由を支援する姿勢によって特徴づけられます。この法律は奴隷制をめぐる対立を激化させ、南北間の緊張を著しく高め、最終的には1861年の南北戦争勃発につながる重要な要因の一つとなったのです。