カンザス・ネブラスカ法とは何か
1854年に制定されたカンザス・ネブラスカ法は、アメリカ史の転換点となる重要な法律であり、やがて南北戦争(1861年〜1865年)勃発の遠因となりました。この法律は、カンザス準州とネブラスカ準州の設置を認めるとともに、1820年のミズーリ妥協を廃止しました。ミズーリ妥協は北緯36度30分より北の地域での奴隷制を禁じており、長年にわたり奴隷制問題の火種を抑えてきた重要な枠組みでした。
カンザス・ネブラスカ法では、準州の住民自身が奴隷制の可否を決める「人民主権」の原則が採用されました。しかしこの方針は奴隷制問題を再び全国規模の論争として浮上させ、カンザスでは奴隷制賛成派と反対派による武力衝突が相次ぎました。この混乱期は、後に「血を流すカンザス(Bleeding Kansas)」と呼ばれることになります。
脱退につながった一連の出来事
カンザス・ネブラスカ法を起点として、最終的に南部諸州の連邦離脱(脱退)へと至るまでには、以下のような重大な出来事が積み重なっていきました。
1. レコンプトン憲法(1857年)
カンザスの奴隷制賛成派は1857年、カンザスにおける奴隷制を認めるレコンプトン憲法を起草しました。これに対して反奴隷制勢力は同憲法を強く拒否し、連邦政府も最終的に承認を認めなかったため、カンザスの混乱はさらに深刻化しました。
2. ドレッド・スコット判決(1857年)
同じく1857年、連邦最高裁判所はドレッド・スコット事件の判決において、アフリカ系アメリカ人は合衆国市民ではなく、連邦裁判所で訴えを起こす資格を持たないと判断しました。この判決は北部世論に大きな衝撃を与え、南北間の対立を一段と激化させました。
3. ジョン・ブラウンのハーパーズ・フェリー襲撃(1859年)
1859年、奴隷制廃止論者のジョン・ブラウンは、バージニア州ハーパーズ・フェリーにある連邦武器庫の襲撃を指揮しました。襲撃自体は失敗に終わりましたが、奴隷制をめぐる緊張をさらに高め、南部では北部への警戒心と恐怖心が強まる結果となりました。
4. エイブラハム・リンカーンの当選(1860年)
1860年、奴隷制の拡大に反対する共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領に当選しました。南部諸州は、自らの経済基盤であり生活様式でもあった奴隷制が脅かされると受け止め、サウスカロライナ州を皮切りに計7つの南部州が相次いで連邦からの脱退を宣言し、翌1861年にはアメリカ連合国を結成します。
まとめ
カンザス・ネブラスカ法は、それまで封印されていた奴隷制問題を再び開き、カンザスでの流血衝突を招いただけでなく、北部と南部の対立を決定的なものへと深めていきました。その後のレコンプトン憲法、ドレッド・スコット判決、ジョン・ブラウンの襲撃、そしてリンカーン当選といった一連の出来事が積み重なり、ついには南北戦争という国家分裂の悲劇へと至ったのです。