奴隷制の問題は、南北戦争(1861〜1865年)に至る「アンテベラム(戦前)時代」と呼ばれる時期において、アメリカ合衆国の州昇格(statehood)をめぐる議論で極めて重要な役割を果たしました。新しい州が奴隷制を認めるか禁止するかという問題は、双方に強い意見が対立し、上院・下院における自由州と奴隷州の勢力バランスに重大な影響を及ぼすため、激しい争点となりました。
州昇格論争における奴隷制問題の主な転換点
ミズーリ妥協(1820〜1821年)
この協定は、新たに獲得した領土における奴隷制の問題を一時的に解決したものです。ミズーリを奴隷州として、メインを自由州として連邦に加える一方、ルイジアナ買収地における将来の自由州と奴隷州の境界線を北緯36度30分に定めました。
ウィルモット条項(1846年)
米墨戦争の費用を計上する法案に付帯された修正案であるウィルモット条項は、戦争の結果として獲得されるあらゆる領土での奴隷制を禁止することを目指しました。この修正案は最終的に成立しませんでしたが、奴隷制をめぐる南北間の亀裂の拡大を浮き彫りにしました。
1850年妥協
米墨戦争(1846〜1848年)で獲得した新領土における奴隷制の扱いが大きな争点となりました。1850年妥協はこの対立に対処する試みであり、カリフォルニアを自由州として連邦に加える一方、ニューメキシコとユタについては、住民自身が人民主権(ポピュラー・ソブリンティ)によってその地位を決めることを認めました。
カンザス・ネブラスカ法(1854年)
この法律はミズーリ妥協を撤廃し、カンザスとネブラスカの住民が人民主権によって奴隷制の可否を決めることを認めたため、南北間の緊張をさらに高めました。奴隷制賛成派と反対派が両地域への入植を急ぎ、暴力的な衝突(いわゆる「流血のカンザス」)が発生し、奴隷制をめぐる地域的対立は一段と深刻化しました。
ドレッド・スコット判決(1857年)
この最高裁判所の判決は、奴隷とされた人々は市民ではなく、連邦裁判所で訴訟を起こすことができないと判断しました。さらに、連邦議会には領土内で奴隷制を禁止する権限がないと宣言し、ミズーリ妥協を事実上無効化しました。
ジョン・ブラウンの襲撃(1859年)
急進的な廃止論者ジョン・ブラウンとその支持者たちは、奴隷反乱を扇動する目的で、バージニア州(現ウェストバージニア州)ハーパーズ・フェリーにある連邦武器庫の襲撃を試みました。この襲撃は失敗に終わり、南北の亀裂をさらに深める結果となりました。
まとめ
州昇格をめぐる奴隷制の議論は、奴隷制およびその拡大を巡る南北間のより大きな対立の一環でした。こうした一連の出来事は国内の緊張と分裂を助長し、最終的に南北戦争の勃発へとつながっていったのです。