北米の歴史

1850年代後半の転換点――平原インディアンに対する米国政策はどう変わったのか?

平原インディアンとの戦争は1854年に始まり、その後の衝突は1870年代後半まで断続的に続きました。米国政府の方針が大きく転換したのは、まさにこの1854年から1859年にかけての時期だったのです。

1850年代後半、米国の平原インディアン政策は、西進拡大のための土地確保という必要性と、ブラックヒルズでの金鉱発見によって大きく左右されました。米国政府は先住民部族への対応をより強硬なものへとシフトさせ始め、緊張と紛争を一層激化させていきました。

1850年代後半における米国政策の主な変更点

1. ララミー砦条約の事実上の放棄

1851年のララミー砦条約は、グレート・スー・リザベーション(スー族保留地)を含む各先住民族の領土境界を定めたものでした。しかし1859年、米国政府は「条約の条件はもはや適用できない」との理由で条約を放棄することを決定します。この決定は先住民たちの怒りを買い、1862年のスー戦争勃発の一因となりました。

2. 軍事プレゼンスの拡大

ブラックヒルズでの金の発見に伴い、白人入植者が先住民の領土へ殺到しました。入植者を守るため、米国政府は地域の駐留兵力を増強し、新しい砦を次々と建設しました。こうした重厚な軍事的プレゼンスは先住民を威圧し、彼らの伝統的な生活様式を大きく制限する結果となりました。

3. インディアン歳出法の成立

1859年、議会はインディアン歳出法を可決しました。この法律は、先住民のために保留地を設け、土地喪失の補償として年金(年賦支給)を提供することを目的としたものでした。しかし同法には、先住民を保留地へ移住させやすくしたり、抵抗する者を処罰したりすることを容易にする条項も含まれていました。

4. 強制移住政策の継続

米国政府は、先住民を伝統的な土地から指定された保留地へ移住させる政策を引き続き推し進めました。場合によってはこの移住が強制的に実行され、紛争や戦争につながりました。この政策は大きな論争を呼び、先住民の生活様式に深刻な混乱をもたらしました。

5. 紛争の激化

これらの要因が重なり合い、米国政府と平原インディアンの間の紛争はさらに激化しました。この時期には、1864年のサンドクリークの戦いや1876年のリトルビッグホーンの戦いなど、歴史に残る重要な戦闘が起こっています。これらの紛争は双方に壊滅的な影響を及ぼし、最終的には先住民の敗北と土地の剥奪につながっていきました。

まとめ

1850年代後半は、平原インディアンに対する米国政策における重大な転換点でした。政府による土地と資源の追求は、より攻撃的で対立的なアプローチへとつながり、緊張と紛争を高め、最終的には先住民部族からの土地剥奪という結果を招いたのです。