ジョンの奴隷制度観:変化と進化
ジョンの奴隷制度に対する見解は複雑で、時代とともに大きく変化していきました。当初は奴隷を所有する立場にあった彼ですが、後に奴隷制度の辛辣な批判者となり、廃止運動の熱心な擁護者へと転じていったのです。
奴隷所有社会で育った少年時代
ジョンの父ピーターは、奴隷を所有する裕福なプランテーション経営者でした。ジョンは奴隷制が当たり前とされる社会で育ち、当初はこの制度を当然のものとして受け入れていました。しかし、成長するにつれて、その道徳性に疑問を抱くようになります。奴隷が人間としてではなく「財産」として扱われることに深く苦悩し、奴隷たちに日常的に加えられる残虐行為や暴力についても認識するようになったのです。
声を上げ始めた1770年代
1770年代初頭、ジョンは奴隷制度に公然と反対するようになりました。一連のエッセイを執筆し、奴隷制度は道徳的に誤りであり、廃止されるべきだと力強く主張しました。その中でも最も有名なエッセイ「アメリカにおけるアフリカ人奴隷制(African Slavery in America)」では、次のように述べています。
「アメリカの奴隷たちは自由を奪われているだけでなく、最も衝撃的な残酷さと野蛮さをもって扱われています…彼らはほとんど何の理由もなく、些細な違反だけで殴られ、鞭打たれ、拷問されます。時には、最も残酷で非人間的な方法で死に至らしめられることさえあるのです。」
経済的観点からの批判
ジョンはまた、奴隷制度が経済面でも有害であると主張しました。奴隷制度は自由で繁栄した社会の発展を妨げ、社会的不平等や対立を生み出すと考えていたのです。
「奴隷制度はそれ自体が悪であるばかりでなく、国にとっても大きな出費と不便の源となっています。人口の増加を妨げ、土地の改良を阻み、勤勉な精神を削ぎ、怠惰と奢侈を生み出すのです。」
時代を先取りした急進的な思想
ジョンの奴隷制度に関する見解は、当時としては極めて急進的なものでした。奴隷制度に公然と反対したアメリカで最初期の白人の一人であり、奴隷所有者や奴隷制の支持者たちから大きな反発を受けることになりました。それでも彼は、奴隷制度は間違っているという信念を決して曲げず、亡くなるまで廃止運動のための戦いを続けました。
ペンシルベニア廃止協会の設立とその遺産
1777年、ジョンはアメリカで最初期の奴隷制度廃止を目的とした団体の一つである「ペンシルベニア廃止協会」の設立を支援しました。さらに1787年から1791年にかけては、同協会の会長も務めています。ジョンの廃止運動への貢献は、後のアメリカにおける奴隷制度廃止運動に大きなインスピレーションを与え、最終的には1865年の奴隷制度廃止へとつながっていったのです。