はじめに
19世紀のアメリカ合衆国では、奴隷制をめぐって北部(自由州)と南部(奴隷州)の対立が深まり続けていました。連邦政府は国家の分裂を防ぐため、何度も妥協案を打ち出しましたが、対立は一時的に収まっても根本的な解決には至りませんでした。ここでは、南北戦争勃発に至るまでの主要な妥協と出来事を時系列で解説します。
1820年:ミズーリ妥協
- ミズーリを奴隷州として、メインを自由州として連邦に加盟させた
- ルイジアナ買収地に北緯36度30分の線を引き、境界線を設定した
- 同線以北での奴隷制を禁止(ただしミズーリは例外)
- 同線以南では奴隷制の継続を認めた
この妥協により自由州と奴隷州の数の均衡が保たれ、以後およそ30年間の安定をもたらしました。
1850年:1850年妥協
- カリフォルニアを自由州として連邦に加盟させた
- ニューメキシコ準州とユタ準州については、住民自身が奴隷制の可否を決定する「人民主権」の原則を採用した
- コロンビア特別区における奴隷取引を廃止した
- 逃亡奴隷法を強化した
ヘンリー・クレイらが中心となって成立したこの妥協は、連邦の危機を一時的に回避しました。しかし、強化された逃亡奴隷法は北部の人々の反発を招き、新たな火種を残すことになりました。
1854年:カンザス・ネブラスカ法
- 1820年のミズーリ妥協を撤廃した
- カンザスとネブラスカの住民が人民主権によって奴隷制の可否を決めることを認めた
- その結果、カンザスで流血の争乱「ブリーディング・カンザス(血を流すカンザス)」が発生した
この法律はスティーブン・ダグラス上院議員が推進したもので、ミズーリ妥協の撤廃は北部を激怒させ、南北対立を決定的に悪化させました。また、反奴隷制勢力が結集して共和党が誕生するきっかけともなりました。
1857年:ドレッド・スコット判決
- 最高裁判所は、アフリカ系アメリカ人は合衆国市民ではなく、連邦裁判所で訴訟を起こす資格がないと判断した
- この判決は南北間の緊張をさらに激化させた
最高裁はさらに、議会には領土内から奴隷制を排除する権限がないとの見解も示しており、奴隷制拡大を阻止する法的手段を事実上奪う結果となりました。
1859年:ジョン・ブラウンのハーパーズ・フェリー襲撃
- 急進的廃奴論者ジョン・ブラウンが、奴隷反乱の引き金を狙って連邦武器庫を襲撃した
- 計画は完全に失敗し、ブラウンは処刑されたが、南北双方の感情をさらに刺激した
南部では、この事件を支持する北部世論の存在への恐怖が広がり、連邦からの脱退を求める機運を高める一因となりました。
1860年:リンカーン当選と南北戦争の勃発
- 奴隷制拡大に反対するエイブラハム・リンカーンの大統領当選は、南部にとって耐え難い結果となった
- サウスカロライナを皮切りに南部諸州が相次いで連邦から脱退し、アメリカ連合国(南部連盟)を結成した
- 1861年、南北戦争が勃発した
まとめ
ミズーリ妥協から1850年妥協、そしてカンザス・ネブラスカ法へと、政府は度重なる妥協によって国家の分裂を防ごうとしてきました。しかし、ドレッド・スコット判決、ジョン・ブラウンの襲撃事件、そして1860年のリンカーン当選といった出来事が積み重なり、ついに妥協の限界が訪れました。こうして1861年、アメリカ史上最も多くの犠牲を出した内戦である南北戦争が幕を開けたのです。