オセアニアの歴史

イギリスのパレスチナ委任統治終了後、国連はどのような統治案を提案したのか?

1947年、イギリスがパレスチナにおける委任統治の終了を決定したことを受け、国連(国際連合)はこの地域の将来像について新たな統治案を提示しました。これが「パレスチナ分割計画」、すなわち国連総会決議181号です。同計画では、パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家という二つの独立国家に分割し、聖地エルサレムは国際管理下に置くことが提案されました。

賛否が分かれた受け止め方

この分割計画に対する評価は、当事者によって大きく分かれました。ユダヤ機関(当時のパレスチナにおけるユダヤ人コミュニティの代表組織)は計画を受諾した一方で、パレスチナ系アラブ人の主要な政治組織であるアラブ高等委員会はこれを拒否しました。さらに、エジプト、サウジアラビア、シリアなどの周辺アラブ諸国もこの計画に強く反対し、地域全体の緊張は一気に高まりました。

計画の実施と第一次中東戦争

イギリスのパレスチナ委任統治が終了した翌日となる1948年5月15日にあわせて、分割計画に基づく動きが現実のものとなりました。ユダヤ人は独立を宣言して国家を樹立し、これに対してアラブ諸国は直ちに軍事介入を行いました。こうして始まった第一次中東戦争(1948年アラブ・イスラエル戦争)は約1年間続き、最終的にはアラブ諸国側の敗北に終わりました。

戦争の結果として誕生した新生イスラエルは、分割計画でユダヤ人国家に割り当てられた領域の大部分を支配下に収めただけでなく、アラブ人国家向けに割り当てられていた領域の一部をも占領することになりました。この結果、計画が想定したアラブ人国家は実現せず、多くのパレスチナ人が難民となって周辺地域へ避難しました。

今日まで続く論争

パレスチナ分割計画は、提唱された当初から現在に至るまで絶えず論争の的となってきました。この計画をパレスチナ問題に対する公正かつ妥当な解決策とみなす見解がある一方で、パレスチナ人にとって著しく不公平なものであったと批判する見解も根強く存在します。また、今日のイスラエルとパレスチナの間で続く紛争の一因を、この分割計画に求める声もあります。1947年に提示されたこの計画は、中東情勢を考えるうえで今なお欠かすことのできない歴史的転換点となっているのです。