オセアニアの歴史

モンテスマは本当にコルテスを首都に迎え入れたのか?歴史の実像に迫る

「モンテスマ(モクテスマ2世)はなぜアステカの首都テノチティトランにコルテスを入れたのか?」――これは世界史でよく議論される問いですが、その前提となる「モンテスマが進んでコルテスを受け入れた」という通説には、慎重な再考が必要です。

スペイン側の記録とその限界

コルテス自身の報告書や従者ベナル・ディアス・デル・カスティリョの証言など、スペイン側の資料によれば、1519年11月にモクテスマが儀礼的な形でコルテス一行を市内に迎えたことになっています。しかし、これらは征服者の視点で書かれた記録であり、政治的な意図や通訳を介した誤解など、多くの歪みが含まれている可能性があります。「歴史的に裏付けられた事実」として単純に受け取るのは危険です。

アステカ側の激しい抵抗

見過ごせない重要な事実は、アステカ帝国がスペイン人に対して長期間にわたり組織的に抗戦したという点です。1520年には「悲しき夜(ラ・ノーチェ・トリスタ)」として知られる反撃でコルテス軍を一時敗走させ、その後も包囲戦の中で徹底的に抵抗を続けました。

テノチティトラン陥落は1521年

こうした激しい攻防の末、テノチティトランが陥落したのは1521年8月13日のことでした。つまり、最初の接触から都市の征服までには約2年の歳月がかかっており、アステカが容易に屈服したわけでは決してありません。

まとめ

「モンテスマが簡単にコルテスを首都に入れてしまった」という単純な図式は、史実とは言い難いものです。当時の記録の信憑性には疑問が残るうえ、アステカ側は最後まで果敢に戦い抜きました。複雑な政治状況と長期に及ぶ抵抗の果てに、テノチティトランはスペイン軍と先住民同盟軍の手に落ちたのです。