オセアニアの歴史

オランダ人はなぜオーストラリアの植民地化を見送ったのか?その歴史的背景

実は、オランダもオーストラリアの植民地化を試みたことがあります。しかし、その試みは最終的に失敗に終わりました。17世紀、オランダ東インド会社(VOC)は複数の探検隊をオーストラリアに派遣しましたが、恒久的な入植地を確立することはできませんでした。ここでは、その背景にある理由を詳しく見ていきましょう。

オランダによるオーストラリア探検の歴史

1606年、ウィレム・ヤンスゾーン率いるオランダ船がオーストラリア北部のヨーク岬半島に到達したのが、ヨーロッパ人による最初の上陸とされています。その後も1616年にはダーク・ハートグが西オーストラリアに上陸し、1642年にはアベル・タスマンが後に「タスマニア」と呼ばれる島やニュージーランドを発見しました。オランダ人はこの大陸を「ニューホラント(新オランダ)」と名付けました。

植民地化に至らなかった3つの理由

1. 貿易重視の方針

オランダ東インド会社の主な関心は、香辛料などの高価値商品を産する東インド諸島(現在のインドネシア)との貿易にありました。当時のオーストラリアには、貿易相手となり得る豊かな資源や市場があるとは見なされておらず、先住民アボリジニとの交易にも大きな魅力を感じていませんでした。彼らにとってオーストラリアは、ジャワ島へ向かう航路上の「通り道」にすぎなかったのです。

2. 過酷な自然環境

オーストラリア北西部の海岸線は岩礁が多く、多くのオランダ船が難破しました。有名な例として、1629年の「バタヴィア号」遭難事件が挙げられます。さらに内陸部は乾燥した気候で農業に適さず、水や食料の調達も困難だったため、恒久的な入植地を維持することは極めて難しい状況でした。

3. 見込める利益の欠如

植民地経営には多大なコストと人員が必要です。オランダは限られた資源を、確実に利益を生む東インド諸島の香辛料貿易に集中させることを優先しました。見返りが期待できないオーストラリアへの投資は、合理的な判断としては割に合わなかったのです。

その後のオーストラリア

こうしてオランダが見限った「ニューホラント」に着目したのはイギリスです。1770年にジェームズ・クックがオーストラリア東海岸を調査し、1788年にはイギリスがシドニーに流刑地を設立しました。これがヨーロッパ人による本格的な植民地化の始まりとなります。

つまり、オランダ人がオーストラリアを植民地化しなかったのは偶然ではなく、当時の貿易戦略、過酷な環境条件、そして費用対効果を考慮した上での、合理的な判断の結果だったと言えるでしょう。