1914年8月、第一次世界大戦の開戦とともに、ドイツ軍はベルギーとルクセンブルクへ進軍しました。これは、フランスを短期間で決定的に打倒することを目指した戦略「シュリーフェン・プラン」に基づく作戦行動でした。
シュリーフェン・プランとは何だったのか
この計画では、圧倒的な規模のドイツ軍が中立国であるベルギーとルクセンブルクを突破し、フランス北部へ一気になだれ込むことになっていました。狙いはパリを西側から包囲し、フランス陸軍に早期の降伏を強いることです。東側ではロシアの動員が遅いという前提があり、ドイツはまず数週間以内にフランスを叩き潰し、その後に全軍を東部戦線へ振り向ける構想でした。
当初は順調に進んだドイツ軍の攻勢
開戦直後のドイツ軍の進撃は概ね成功を収めました。ベルギーの抵抗や要塞の攻略に手間取ったものの、主力部隊はフランス領内へ深く侵入し、1914年9月初旬にはパリの北東約60キロにあるマルヌ川沿いまで到達します。首都パリに迫るドイツ軍の影に、フランス政府は一時ボルドーへの退避を検討するほどでした。
マルヌの戦い――計画崩壊の決定打
しかし、1914年9月5日から12日にかけて行われたマルヌの戦いで、戦況は大きく転換します。フランス軍とイギリス遠征軍(BEF)はドイツ第一・第二軍の間に生じた隙をついて反撃に転じ、ドイツ軍の進撃を完全に食い止めたのです。パリ守備隊が前線への増援輸送にタクシーを動員した逸話は、「マルヌの奇跡」として今も語り継がれています。
この敗退により、シュリーフェン・プランは事実上の失敗に終わりました。短期決戦の望みを断たれたドイツ軍は後退し、両軍はエーヌ川沿いで対峙することになります。
4年に及ぶ塹壕戦の幕開け
以降、両軍は「海への競争」と呼ばれる機動戦の末に防衛線を固め、西部戦線は塹壕に依拠する長期の膠着状態へと移行しました。この静的戦線はヴェルダンの激戦やソンムの攻勢など膨大な犠牲を伴う消耗戦の場となり、1918年までほぼ動くことはありませんでした。
マルヌでの停止は、単なる一つの会戦の帰結にとどまらず、第一次世界大戦全体を「長期戦・総力戦」へと方向づけた歴史的転換点だったのです。