南アメリカの歴史

1850年妥協は、カリフォルニアを自由州としながらどうやって南部人を宥めたのか?

1850年妥協(コンプロマイズ・オブ・1850)とは何か

1850年妥協は、米墨戦争で獲得した新領土における奴隷制をめぐる政治的対立を一時的に解決するために、アメリカ合衆国議会で可決された一連の法律群です。単独の法律ではなく、北部と南部双方の利害を調整するために組み合わせられた複数の法案からなる「パッケージ」として成立しました。

妥協が必要となった背景

1848年に終結した米墨戦争の結果、アメリカはカリフォルニアやニューメキシコなど広大な領土を手に入れました。しかし、これらの新領土で奴隷制を認めるか否かをめぐって、北部と南部の対立が急速に先鋭化していました。ゴールドラッシュによる人口急増を背景に、カリフォルニアが自由州として連邦加盟を求めると、上院における自由州と奴隷州の勢力バランスが崩れることを恐れた南部側が強く反発したのです。

妥協の主な内容

1850年妥協の中心となったのは、カリフォルニアを奴隷制を禁じた自由州として連邦に加盟させることでした。しかしそれだけでなく、以下のような条項がセットで盛り込まれています。
ユタ準州・ニューメキシコ準州: 奴隷制の可否については、連邦議会ではなく入植者自身が決定する「人民主権(ポピュラー・ソブリンティ)」の原則が採られました。
テキサスの境界紛争: テキサスはニューメキシコへの領土主張を放棄し、その見返りとして連邦から1,000万ドルの補償金を受け取りました。
ワシントンD.C.での奴隷貿易禁止: 首都における奴隷貿易は廃止されましたが、奴隷制そのものは維持されました。
逃亡奴隷法の強化: 北部へ逃亡した奴隷を捕らえ、所有者のもとへ返還する義務を大幅に強化した新たな逃亡奴隷法が制定されました。

南部を宥める仕組み

カリフォルニアの自由州化だけを見れば北部に有利な措置ですが、妥協全体としては南部への配慮が丁寧に織り込まれていました。特に強化された逃亡奴隷法は南部にとって最大の譲歩であり、これに加えて人民主権による将来的な奴隷制拡大の可能性が示されたことで、南部人は一定の満足を得ました。つまり1850年妥協は、カリフォルニアを自由州としながらも、その他の条項によって南部の利害を守るという形で成立したのです。

根本的な解決にはならなかった

ただし、この妥協は奴隷制をめぐる対立を完全に解決したわけではありません。「今後奴隷制が認められるのかどうか」という根本的な問いに対しては、明確な答えを出さないまま判断を先送りする形にとどまりました。妥協のおかげで南北戦争前夜の緊張は一時的に和らぎましたが、逃亡奴隷法への北部世論の反発など、新たな対立の火種も生み出す結果となりました。奴隷制問題が最終的に決着を見るのは、1861年に始まる南北戦争まで待たなければならなかったのです。