南アメリカの歴史

南部が奴隷制を放棄しなかったとき、北部はどのように反応したのか?

19世紀半ばのアメリカにおいて、南部諸州が奴隷制度の放棄を頑として拒んだことに対し、北部の人々の反応は決して一枚岩ではありませんでした。むしろ、奴隷制を擁護する者、道徳的な理由から廃止を強く求める者、そして問題そのものに深く関与しようとしない者と、大きく三つのグループに分かれていたのです。

1. 南部の立場に同情的だった人々

奴隷制に同情的な北部の人々は、奴隷制を「必要悪(necessary evil)」と捉え、南部経済に不可欠な仕組みであると主張しました。彼らの考えによれば、もし奴隷制が突然廃止されれば、プランテーション経済を支える労働力が失われ、南部経済は崩壊し、社会全体が混乱に陥る恐れがありました。

さらに彼らは、莫大な資金を投じて奴隷を購入してきた所有者に対し、補償もなしに奴隷を解放することは不公平であるとも主張しました。つまり、奴隷は彼らにとって重要な「財産」であり、その剥奪は正当な権利の侵害だと見なしていたのです。

2. 道徳的な理由から奴隷制に反対した人々

一方、道徳的な観点から奴隷制に断固として反対する人々も多く存在しました。彼らは奴隷制を人権の根本的な侵害であり、文明社会において決して容認されるべきではない「罪」であると信じていました。

こうした思想を背景に、ウィリアム・ロloyd・ガリソンや元奴隷のフレデリック・ダグラスらが率いる廃止運動(アボリショニズム)は北部で勢いを増していきました。彼らは奴隷制の即時廃止を訴えると同時に、奴隷解放は南部にとっても有益であると論じました。安価な不自由な労働に依存せず、より多様化した産業経済へと移行すれば、南部は北部と対等な足場で競争できるようになる、というのがその主張です。

3. 奴隷制問題に無関心だった人々

また、奴隷制の問題自体に強い関心を持たない層も少なくありませんでした。彼らは、南部の内政に外部から干渉すべきではないと考え、「奴隷制の是非は各州が自ら判断すべきものであり、連邦政府が口を出すことではない」という州権優先の立場を取っていました。

この中立姿勢は一見穏健に思えますが、結果的には奴隷制の存続を間接的に許容することにもつながり、北部内部の意見分裂をさらに深める要因となりました。

奴隷制問題はいかにして南北戦争へつながったのか

このように北部の世論が割れる中、奴隷制をめぐる対立は次第に先鋭化していきました。1860年のエイブラハム・リンカーン大統領の当選をきっかけに、奴隷制の維持を恐れた南部諸州は相次いで連邦からの脱退を宣言します。

そして1861年、南北戦争が勃発しました。4年間に及ぶ激しい内戦の末、北部の勝利により奴隷制は廃止され(1865年の憲法修正第13条)、分断された合衆国は再統一を果たしました。奴隷制をめぐる北部の揺れ動く反応こそが、アメリカ史上最大の試練といわれる南北戦争の伏線となったのです。