ヨーロッパの歴史

スペイン国王アルフォンソ12世――亡命から王政復古へ、「平和王」と呼ばれた若き君主の生涯

スペイン国王アルフォンソ12世(Alfonso XII、1857年11月28日 – 1885年11月25日)は、革命と共和制の混乱期にあったスペインに王政復古をもたらし、「平和王(El Pacificador)」と称えられた君主である。マドリードに生まれ、母イサベル2世の廃位とともに亡命の道を歩んだが、1874年末の復古運動によって即位を果たした。本記事では、その波乱に満ちた生涯を詳しく解説する。

幼少期と亡命生活

アルフォンソは1857年11月28日、マドリードにおいて、スペイン女王イサベル2世とその夫フランシスコ・デ・アシースとの間に生まれた。1868年の名誉革命が起こると、母后とともにフランスへ渡った。1870年6月25日、イサベル2世は正式に退位し、自らの有するスペイン王位継承権のすべてを息子アルフォンソへ譲渡した。

女王が廃位された後、アントニオ・カノバス・デル・カスティージョ(1828–1897)率いるアルフォンソ党は、アルセニオ・マルティネス・デ・カンポス将軍(1831–1900)らの支援を受けながら、ブルボン朝復位のために粘り強く活動を続けた。その結果、第一共和政の末期には、アルフォンソ党は政界や軍部に多数の支持者を抱え、国民の間にも広い同情を集める勢力へと成長していた。

第一共和政の崩壊と復古への機運

1874年1月3日、マヌエル・パビーア将軍(1827–1895)が第一共和政に事実上の終止符を打つと、彼は国内外の文民・軍の各当局に電報で経過を通知し、権力を各政党の代表者へ委譲する方針を示した(当時交戦状態にあったカルリスタ党と連邦派は対象外)。まもなく諸勢力からなる政府が組織され、セラーノ将軍(ラ・トーレ公)が執行部の長となって憲法保障を停止し、国内の秩序を回復するとともに、ヨーロッパ諸国からの新政府承認も取り付けることに成功した。

スペイン国王アルフォンソ12世――亡命から王政復古へ、「平和王」と呼ばれた若き君主の生涯

こうした情勢の中、複数の将軍を擁するアルフォンソ党は王子アルフォンソの即位宣言へと動き出した。カンポス将軍は軍事蜂起による布告を望み、一方カノバスはコルテス(議会)での合法的な手続きを主張していた。しかし1874年12月23日、ルイス・ダバン将軍(1841–1892)から計画の即時開始を促す書簡を受け取ったカンポス将軍は、ついに単独行動を決意する。12月28日の夜、マドリードを発ってダバンの駐屯するサグント(バレンシア近郊)へ向かい、翌朝、アルフォンソ12世をスペイン国王として布告したのである。

この蜂起にはただちに中央管区司令官ホアキン・ホベジャール(1819–1892)、マドリード管区司令官フェルナンド・プリモ・デ・リベラ(1831–1912)らが呼応し、マドリード駐留軍も蜂起への参加を政府に通告した。その背景には、国民の多くがドン・アルフォンソに好意的であったことと、勢力を拡大しつつあったカルリスタ党への警戒感があった。

帰国と即位

布告を知ったセラーノ将軍は抵抗を試みたが、1874年12月31日の夜、マドリードに集結したアルフォンソ党の面々が、イサベル2世から1873年に授与されていた権限に基づいて暫定政府(摂政委員会)を樹立すると、旧政府は解散し、セラーノはフランスへ去った。

当時ウィーンのテレジア学院に学んでいたアルフォンソ12世はパリを経て、1875年1月7日にマルセイユから軍艦「ナバス・デ・トロサ号」で出航し、9日にバルセロナ、11日にバレンシア、14日に首都マドリードへ入城した。

1876年憲法と国内の平定

即位後まもなく、アルフォンソ12世は名士からなる委員会に新憲法案の起草を委ね、普通選挙によって新コルテスを選出する方針を打ち出した。さらにただちに北方へ赴き、カルリスタ勢力と戦う政府軍の指揮を執った。1876年2月16日には自身の治世最初のコルテスを開会し、カノバスが待ち望んだ民主的な承認を確保した。同年2月27日、カルリスタ側の僭称王カルロス・マリーア・デ・ロス・ドロレスは敗れて国外へ脱し、第三次カルリスタ戦争はここに終結した。アルフォンソ12世は翌3月20日にマドリードへ戻り、6月30日には1869年憲法に代わる1876年憲法に署名した。

1876年7月21日、コルテスはバスク3州の特権(フエロス)を廃止する法律を可決した。また、マルティネス・デ・カンポス将軍はキューバへ派遣され、同将軍がスペイン政府との間で取り決めた基礎に基づく和平交渉の結果、1878年2月10日にサンホン協定(Zanjón)が調印された。この協定により、キューバ島はプエルトリコ島と同等の政治的・行政的地位を与えられ、1868年以降の政治犯に対する恩赦や奴隷の自由などが約束された。ただし、奴隷所有層の抵抗により、奴隷制の全面撤廃はアルフォンソ12世の治世後まで先送りされることとなった。

アルフォンソ12世の結婚

1878年1月23日、国王は従姉にあたるマリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンス・イ・ボルボン(1860–1878)と最初の結婚をした。彼女はオルレアンス家のインファンテ・アントニオと、イサベル2世の妹マリア・ルイサの間に生まれた娘であったが、同年6月26日に夭逝した。その死は国王のみならず国民にも深い悲しみを与え、民衆のロマンセ(叙情歌)の形で今なお語り継がれている。

1879年11月29日、国王は二度目の結婚として、ハプスブルク家出身のオーストリア大公女マリア・クリスティーナ(1858年生まれ、カール・フェルディナント大公とエリーザベト・フランツィスカ大公妃の娘)と結ばれた。この結婚による子どもは以下の通りである。

  • マリア・デ・ラス・メルセデス(1880年9月11日 – 1904年10月17日):後にスペイン王妃となる
  • マリア・テレサ(1882年11月12日 – 1912年9月23日)
  • アルフォンソ13世:父の崩御後に生まれた遺児として王位を継承

このほか国王は、オペラ歌手エレーナ・サンスとの間に、パリで生まれた二人の庶子がいた。すなわちアルフォンソ・サンス(1880年生まれ)とフェルナンド・サンス(1881年生まれ)である。

暗殺未遂と崩御

1878年10月25日、オリバ・モンクシなる男がマドリードのカジェ・マヨールでピストルを発射し、国王の暗殺を図ったが、目的は達成されず現場で逮捕された。取り調べの中で男は、4日前にタラゴナからやって来て国王を殺害するつもりだったと自白したという。

そして1885年11月25日、アルフォンソ12世はマドリード近郊のエル・パルド宮殿において結核のため崩御した。28歳の誕生日を数日前に控えた、あまりにも早すぎる死であった。第三次カルリスタ戦争とキューバ戦争を終わらせた功績により、国王は「平和王(El Pacificador)」の異名で後世に記憶されることになった。死後は未亡人のマリア・クリスティーナが摂政として国政を担い、遺児アルフォンソ13世の成年までスペイン王室の安定を支えた。