6世紀末から7世紀初頭、ドナウ川流域に現れたアヴァール人は、ビザンツ帝国にとって新たな脅威となった。
ドナウ川に現れた新たな脅威――アヴァール人とは
6世紀末から7世紀初頭にかけて、ビザンツ帝国の北方、ドナウ川流域に新たな脅威が姿を現した。それがアヴァール人である。モンゴル系民族である彼らは、現在のトルコ人、とりわけエルドアン大統領によって「兄弟」とみなされる存在だ。アヴァール人はスラヴ系諸族のみならずゲルマン系諸族をも服属させ、バルカン半島北部に広大な国家を築き上げていた。
精強な騎兵と従属民の歩兵
アヴァール人の最大の武器は、数多く擁する優秀な騎兵だった。一方、歩兵の大部分は臣従を誓ったスラヴ人やゲルマン人で構成されていた。ドナウ川を足場にビザンツ帝国の諸州への略奪を繰り返すアヴァール人に対し、皇帝マウリキオスは将軍プリスクスを派遣し、迎撃を命じた。
初戦――方形陣が騎兵を封じる
ドナウ川に到着したプリスクスは、敵の実力を探るため偵察部隊を北岸へ渡河させた。しかしアヴァール人はこれを発見して攻撃を仕掛け、ビザンツ部隊は全滅の危機に瀕する。辛うじて危機を伝えた前衛の要請を受け、プリスクスは手近な舟を集め、筏まで造って全軍を渡河させ、前衛の救援へ急行した。これによりアヴァール人は撤退した。
続いてプリスクスは軍を三分割し、各部隊を方形陣に組ませた。機動力に勝るアヴァール騎兵の攻撃を無力化するためである。この陣形のまま敵の後方へ進撃すると、アヴァール人は数時間にわたり方形陣へ攻めかかったが、損害を重ねるばかり。ついに撤退を余儀なくされ、戦場には4,000の死体が残された。対するビザンツ軍の損害は約300名にとどまった。
二度目の戦い――計算された包囲
勝利後もプリスクスは焦らなかった。軍を休養させながら周辺に偵察隊を放ち、敵情と地形の情報を収集する。そして初戦から7日後、再び攻勢に転じた。今回は通常の三個師団編成で進み、あえて敵を挑発。予想どおりアヴァール人が攻撃を仕掛けると、計画どおり部隊をわずかに退かせ、三日月状の陣形を敷いて敵を包囲した。
四方のうち三方を塞がれたアヴァール人は、瞬く間に虐殺された。9,000の死者を残して潰走したのである。プリスクスは同じ手順を踏み、軍を休ませてから二度目の勝利から6日後、ふたたび敵に迫った。
決戦――ウィミナキウム近郊の殲滅戦
偵察の報告によれば、アヴァール人はウィミナキウム付近の地点から進軍しており、その背後には広大な沼地が横たわっていた。正面から攻撃すれば、敵を自軍と沼地の間に閉じ込めることができる。絶好の好機だった。
プリスクスは一刻も惜しまず、自ら先頭に立ち全軍に疾走を命じた。ビザンツ軍は地域を見下ろす丘に敵に先んじて到達し、驚愕するアヴァール人を眼前に捉えた。やむなくアヴァール人は一枚岩の横隊を敷いたが、それは彼らの誇る圧倒的な騎兵の数的・質的優位を自ら無効化するものだった。プリスクスはただちに攻撃を下令する。
槍を突き出し、軍旗をなびかせたビザンツ騎兵は、驚異的な速度で突撃し、最初の一撃で敵の戦列を粉砕した。恐慌に陥ったアヴァール人は沼地へ逃げ惑い、数千人がそこで無残な最期を遂げた。カガン(可汗)バヤンの四人の息子を含む15,000人以上が命を落としたのである。
20日間の追撃で57,000人を討つ
主力を壊滅させたプリスクスは追撃の手を緩めなかった。敗残兵を20日間にわたり執拗に追い詰め、その結果、57,000人の敵兵を討ち取ったという。アヴァール人のバルカン侵攻は、ここに大きく挫折することとなった。