ヨーロッパの歴史

西ゴート王アマルリック――テオドリックの摂政から悲劇的な最期まで

アマルリック(Amalric、502年~531年)は西ゴート王国の王です。父は西ゴート王アラリック2世、母はイタリアの東ゴート王テオドリックの娘テオデゴンダでした。511年、テオドリックが西ゴート王ゲサリックを追放して孫のアマルリックを王位に就けると、その見返りとしてプロヴァンス地方を確保し、以降は摂政として孫の西ゴート王国を統治しました。アマルリックの教育は、東ゴート人のテウディスに委ねられています。

テオドリックの摂政政治

テオドリックは、ヒスパニア・ローマ系貴族との協力関係の構築に努めました。アルレ(アルル)を拠点とするガリア法務長官府を創設して司法・法律上の機能を担わせ、その長にはヒスパニア・ローマ系貴族を任命する一方、西ゴート王国の軍事力は東ゴート人が掌握するという権力分立の体制を築き、両勢力の協調を図ったのです。

また宗教面においても、カトリック派とアリウス派の融和政策を推進し、両派の間で混合婚も数多く結ばれました。その一方で、西ゴート政治の中心地は次第にイベリア半島北西部へと移っていきます。

アマルリックの親政開始

526年、テオドリックは孫アマルリックの親政開始(成年到達)を宣言し、まもなくこの世を去りました。イタリアの東ゴート王国の王位は、もう一人の孫であるアタラリックが継承します。テオドリックとともにヒスパニアへ渡っていた東ゴート人たちはイタリアへ帰還し、これによりヒスパニアの西ゴート政府は、イタリアの東ゴート政府から完全な独立を達成しました。さらに529年には、西ゴート政府はガリア法務長官府からも分離しています。

アマルリックは従兄にあたるアタラリックと協定を締結し、ロダヌス川(ローヌ川)を両王国の国境とすること、またアタラリックが祖父テオドリックが持ち去った宝物を西ゴート側へ返還することが取り決められました(この約束は実際に履行されています)。

フランク王国との婚姻と対立

一方アマルリックは、フランク王国との和平を確保するため、フランク王クローヴィスの王女クロティルドと結婚しました。しかしこの結婚は、まもなく宗教上の理由から深刻な亀裂を生むことになります。アマルリックは熱心なアリウス派信徒であったのに対し、王妃クロティルドは敬虔なカトリック教徒だったのです。

王は妃に改宗を強要してアリウス派の信仰を受け入れさせようとしましたが、思い通りにならず、長きにわたって彼女に虐待を加え続けました。ついにクロティルドは実家の親族へ救援を求めます。父クローヴィスの後を継いだフランク王ヒルデベルト1世(クロティルドの兄弟)はただちに出兵し、フランク軍は西ゴート領内へ侵攻してアマルリックの軍を撃破しました。ヒルデベルト1世は妹クロティルドを連れ戻しましたが、彼女はフランク宮廷への帰還の途上で亡くなりました。

アマルリックの最期

この敗戦により、アマルリックは自軍の兵士たちによって暗殺され、531年、テウディスが新たな王として擁立されました。アマルリックの敗北を機に、西ゴート族によるガリアからイベリア半島への最後の大移動が行われることとなったのです。