ヨーロッパの歴史

古代ローマのプロ剣闘士「アウクトラトゥス」―固定給と勝利報酬で戦った自由人たちの実像

剣闘士同士の戦いという形式そのものは、本来の姿から変質したものでした。その起源はエトルリア人の時代にまでさかのぼります。当時は、身分の高い人物が亡くなった際、その死を称えるために捕虜同士の戦いを捧げる習わしがありました。つまり剣闘競技は、葬送儀礼として始まったのです。しかしやがてそれは娯楽的な見世物へと姿を変え、動物同士の戦いや人間対猛獣の戦いなども次々に追加され、ショーが退屈にならないよう工夫されるようになりました。

剣闘競技は「ビジネス」だった

剣闘士の試合の大多数は「初血まで(ファーストブラッド)」、つまり相手が流血した時点で決着をつけるものか、皇帝や興行主による赦免(ミッシオ)が認められるものでした。文字通り命を懸けて最後まで戦う場合(sine missione=赦免なし)は、むしろ稀だったのです。

考えてみれば、これは明確に一つのビジネスでした。試合を企画・出資する興行主(エディトール)は、民衆の歓心を買い、満足させ、公職選挙での票を獲得するために、剣闘士養成所の主人であるラニスタから戦士たちを借り受け、当然ながらその対価を支払いました。死闘となれば支払額は格段に跳ね上がります。死んだ剣闘士は、ラニスタが今後の興行に貸し出せる戦士が一人減ることを意味するからです。宿泊施設、厳格な訓練、食事、専門的な医療ケアなどに投じた費用を回収するには、一人の剣闘士に何度も試合に出場させ、収益を上げる必要があったのです。

古代ローマのプロ剣闘士「アウクトラトゥス」―固定給と勝利報酬で戦った自由人たちの実像

剣闘士養成所

剣闘士は奴隷だけではなかった

映画や小説の脚色の影響もあって、剣闘士といえば奴隷、戦争捕虜、罪人など、アリーナでの戦いを強いられた人々を想像しがちです。しかし実際には、職業として剣闘士を務めた者たちも存在しました。それがアウクトラトゥス(auctorati)、金と栄誉のために自ら進んで戦った自由人です。彼らにとって剣闘士は、れっきとした「天職」だったといえるでしょう。

しかも史料によれば、戦いを強いられる囚人や捕虜、奴隷だけで興行を行うよりも、アウクトラトゥスによる競技会(ludi)を開催する方が格式が高いとされていました。彼らは名誉と栄光、そして金のために戦うため、より競争力が高く、観客を熱狂させる見応えのある試合を繰り広げたからです。また、こうした元自由人の剣闘士たちは、年に3〜4回ほどしか試合を行わなかったとも伝えられています。

アウクトラトゥスになるには?

志願者は剣闘士養成所を訪れ、ラニスタと契約を結びました。契約期間は通常5年で、双方が合意すれば同じ期間ずつ更新することも可能でした。その見返りとして、彼らは固定給と、目標達成(勝利)に応じた歩合報酬を受け取ることができたのです。

そして彼らは「uri, vinciri, verberari, ferroque necari」という誓いの言葉を唱えました。「焼かれ、縛られ、打たれ、鉄の剣に斬られて死ぬべし」。つまり、どんな運命が待っていようとそれを受け入れ、死闘を全うすることを誓ったのです。この瞬間から、彼らは正式にプロの剣闘士となりました。

ただし、民衆の熱狂的な支持を享受していたとはいえ、この誓約を交わして剣闘士になることは、「不名誉(infamia)」と呼ばれる政治的権利の喪失を意味しました。ローマ法では不名誉に二種類が認められています。一つは剣闘士のような不評判な職業に就くことで生じる「事実上の不名誉(infamia facti)」、もう一つは詐欺などの悪質な行為に対する裁判の判決によって科される「法的不名誉(infamia iuris)」です。これにより、アウクトラトゥスは役者や売春婦と同等の身分とみなされることになったのです。

なんとも皮肉なことに、偽善的なローマ社会はこうした職業の人々に「不名誉」という烙印を押して「清廉潔白な」市民と区別しながらも、その一方で剣闘士の試合を熱望し、劇場を埋め尽くし、売春宿へと足繁く通っていたのです。

剣闘士と軍団兵、どちらが「おいしい」仕事?

あらためて考えてみると、一定の権利を失うことをさほど気にしないのであれば、アウクトラトゥスになるほうが軍団兵になるよりはるかに得でした。報酬は桁違いに高く、命の危険に晒される機会ははるかに少なく、しかも民衆の称賛まで手に入るのですから。そうは思いませんか?